人に質問するという行為は、尋ねた側も知性を問われる――。
 質問をする前にきちんと調べ、考えてきたのか、被取材者から見つめられる。日本のスポーツ新聞記者、テレビ局レポーターが多用する「今日、どうでした?」といった類の問いかけは、質問者がどこに問題点を見出して、何を聞きたいのかという具体性がない。残念ながら、少なくないメディアに携わる人間は、こうした当たり前のことに無自覚である。
(写真:質問者に鋭い視線を向ける)
 すでにジェフユナイテッド市原で監督の経験があったイビチャ・オシムは、日本メディアの質を見抜いており、安易な質問には鋭く反応した。
 例えば、2007年6月のモンテネグロとの試合後の記者会見――。
「ワンタッチプレーでリズムを作るのが日本の良さだと思うが、それができなかったのはどこに原因があると思うか?」
 という質問に対して、オシムはこう応じた。
「それで何が聞きたいのか? 相手がいるのだ。自分たちだけでプレーしているのではない」

 記者の質問に対してむきになることもあったジーコと違って、オシムは時に記者に対して逆に質問し、煙に巻くこともあった。里内は横でオシムのやり取りを聞いていて、「老練な指導者だ」と見ていた。
 日本人は、教師然とした白人に弱い。哲学的問答のような受け答えをするオシムは崇められるようになった。

 事情は代表の現場でも同じだった。
 オシムの練習は中身が濃い。決められた練習時間が終わると、オシムは「俺は先に帰る」と用意された車に乗り込んだ。他のスタッフもオシムの教えを受けたいと考えていたのだろう、彼に続いてその車に乗った。

 しかし、まだ居残り練習をしている選手もいた。オシムは練習に集中することを求めたが、時間外の練習を禁じなかった。選手が足りないと感じるならば、練習すればいい。「選手が練習している以上、誰かコーチが付き添ったほうがいいだろう」と思った里内は練習グラウンドに残ることにした。

 これは微妙な選択だったといえる。里内はコーチングスタッフの中で唯一、前任者のジーコ監督時代から残った人間だ。里内とジーコの関係について、思慮深いオシムは当然知っていたことだろう。往々にして人は前任者のやり方を否定するものだ。その意味で里内は、オシムから最も疎まれる可能性があった。保身を考えるならば、オシムの側を離れず、彼の良き理解者を演じようとしただろう。

 しかし、里内には割り切りがあった。自分の役割はジーコ時代の蓄積をうまく引き継ぐことだ。それが終われば自分は身を引けばいい。そのため契約期間を6カ月としていたのだ。

 オシムの練習は、7色のビブスを使用したり、独特なものもあった。だが、選手に対する接し方、自主性、選手の考えを重視する点など、ジーコと本質は変わらないと里内は思っていた。そして、オシムは彼のやり方に文句をつけることもなかった。里内は予定通り6カ月の契約期間を満了すると日本代表から離れた。



 日本代表フィジカルコーチを退いた里内が次に引き受けたのは、女子の指導だった。07年2月、ジェフユナイテッド市原・千葉レディースの監督になる。トップリーグから日本のサッカーを見てきたが、今度は下から見上げてみたいと考えたのだ。ジェフ・レディースは当時、なでしこリーグの2部に所属しており、前年度は4位だった。女子は男子と比べると、環境面で恵まれていない。だからこそ、純粋にサッカーが好きな選手が多く、里内にとってはやり甲斐があった。

 しかし、実績ある里内を他クラブが放っておくことはなかった。翌08年、里内は川崎フロンターレのフィジカルコーチに就任した。これは指揮を執っていた関塚隆の誘いによるものだ。里内と関塚は鹿島アントラーズ時代の同僚であり、ジーコの教えを受けた“同門”でもある。

 関塚は、60年に千葉県船橋市で生まれた。里内よりも学年で4つ年下に当たる。八千代高校から1年の浪人を経て、一般入試で早稲田大学に入った。大学卒業後は本田技研工業に進み、日本リーグの新人王にもなっている。
 現役引退後、母校の早稲田大学ア式蹴球部の監督をしていたところ、鹿島からコーチとして誘われた。鹿島の初代監督は、大学の先輩である宮本征勝だった。その後、宮本の清水エスパルス監督就任に伴い、関塚も鹿島を退団し、後を追った。95年、鹿島に復帰、98年、99年シーズンは監督代行も務めている。
(写真:里内の力を必要とし、川崎Fに呼び寄せた関塚)

 関塚の名前が広く知られるようになったのは、04年に川崎Fの監督となってからだ。J2だったクラブをJ1に昇格させ、翌年はJ1で8位に進出した。
 関塚には特に若手登用の才があった。日本代表となった我那覇和樹、北朝鮮代表としてW杯に出場するチョン・テセ、そして中村憲剛といった、他クラブが見逃していた選手を発掘し、育てていた。

 ただし、優勝争いに食い込むチームと優勝するクラブとの間には差がある。その差を埋めるために、鹿島で共に戦った経験のある里内を関塚が呼んだのは自然の流れだったろう。
 里内が加入した08年、川崎Fは最終節まで優勝争いに加わり、2位でシーズンを終えた。翌09年はナビスコカップで準優勝、リーグ戦でも再び2位という成績を残している。
 
 インフラ、人件費などを考えれば、川崎はJリーグの中では恵まれたクラブではない。それを鑑みれば、悪い成績ではない。しかし、「優勝させることができなかった」と里内は力不足も感じていた。09年を最後に監督の関塚は退任、里内も契約期間を終えて、クラブを離れた。

 10年3月、里内はブラジルに向かった。そこでぼくは彼と出会った。この連載第1回目の冒頭部分だ。里内は「1年間ぐらい、ブラジルでもう一度勉強し直したい」と語っていた。
 しかし、彼の思い通りにはならなかった――。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。最新刊は『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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