中5日なら5日、中6日なら6日と、あらかじめ登板間隔が決まっているスターター(先発投手)と違って、セットアッパー(中継ぎ投手)は骨の折れる仕事である。
 その日、出番があるかどうかは、ゲームが始まってみなければわからない。展開を読みながら黙々とブルペンで肩をつくり、名前がコールされる瞬間を待つ。
 チームへの忠誠心と肉体、精神両面でのタフネス、そして何より投げることが好きでなければ、この仕事は務まらない。

 巨人のセットアッパー山口鉄也は昨季までの5年間、連続して60試合以上に登板している。
 08年=67試合、11勝2敗2セーブ、23ホールド、防御率2.32。
 09年=73試合、9勝1敗4セーブ、35ホールド、同1.27。
 10年=73試合、8勝3敗5セーブ、20ホールド、同3.05。
 11年=60試合、5勝1敗2セーブ、25ホールド、同1.75。
 12年=72試合、3勝2敗5セーブ、44ホールド、同0.84。
 この間、チームの3度のリーグ優勝と2度の日本一に貢献した。

 年俸も入団時の240万円から2億4千万円(推定)に跳ね上がった。100倍である。WBC日本代表にも第2回、第3回と連続して選ばれ、日の丸を背負ってプレーした。
 エリート揃いの巨人にあって、彼は育成選手から這い上がってきた叩き上げ。平成のジャイアンツ・ドリームと言っても過言ではない。

 横浜市に生まれた山口は、3歳上の兄の影響で地元の名門・横浜商高に進んだが、甲子園に一度も出場できなかった。プロ志望ではあったが、どこからも声はかからなかった。
 そんな、ある日のことだ。米国に住んでいるメジャーリーグの日本人代理人から「テストを受けてみないか?」と誘いを受けた。「軽い気持ち」で渡米し、アリゾナの大学のグラウンドでテストを受けた。結果は合格だった。

 振り返って、山口は語る。
「いきなり合格と言われても“じゃあ、お願いします”とは答えられない。それで、日本に帰ってきて、いろいろな人たちに相談しました。その結果、“まぁ大学に行ったつもりで4年間ぐらい頑張ってもいいんじゃないか”となり、一番条件の良かったダイヤモンドバックスと契約したんです」
 もちろんマイナー契約で所属先はルーキーリーグ。ハンバーガーをかじりながら、遠征先はバス移動。アメリカの野球映画に出てくる世界が、そこにあった。

「一番、困ったのは英語。一応、電子辞書を持って行ったんですが、単語を適当につなげて話す程度でした。だからチームプレーの説明も、最初は何を言っているのか、よくわからなかった。
 食事はハンバーガーかピザ。あるいはイチゴジャムとバタークリームが塗られた食パン。移動はバスで、常にギュウギュウ詰めの状態。長い距離なのに、ひとりに与えられるのは1席。疲れてくると床に寝る人もいました」

 生活環境は厳しかったが、野球は楽しかった。山口にはアメリカの野球が合っていた。
「向こうは細かいことは指摘せずに、いいところだけ伸ばすスタイル。強いていえば、アドバイスされたのは“ステイバック”の重要性くらいですかね。体が突っ込むクセがあったので、もっと軸足に体重を残せと。あとは何も強制されなかった」

 メジャーリーガーを目指したが、夢へのハードルは高かった。
「キャンプの時は僕らもルーキーリーグから1Aに上がれるんです。ところがシーズンが始まると、メジャーからベテランの人たちが3Aに落ちてきて、そのあおりをくって僕たちも、また下に戻らざるを得なくなってしまう。勝負だと思っていた4年目のシーズンもそうでした。このままアメリカに残っていても、上に行くチャンスはないだろうと思って日本のテストを受けることにしたんです」

 捨てる神あれば、拾う神あり。横浜と東北楽天の入団テストには失敗したが、兄の草野球のユニホームを借りてダメ元で受けた巨人のテストで、独特のチェンジアップが、ひとりのコーチの目に留まった。当時、2軍コーチをしていた小谷正勝だった。

 小谷の回想――。
「右打者のアウトサイドにきちんと沈められる。当時、スカウト部長をしていた末次利光さんに“枠があるなら、獲っておかれたらいいんじゃないですか”と話したのを覚えています」
 この年から育成選手制度が導入され、正規のドラフトとは別に育成ドラフトという新人獲得枠が設けられたことも山口にとっては幸いだった。しかも巨人はサウスポーを探していた。背番号は打撃投手がつけるような102だった。

 山口にとって飛躍のきっかけは224勝左腕・工藤公康との出会いだった。1年目のオフ、工藤の自主トレに同行した。見ること聞くこと、すべてが新鮮だった。
「今まではキャッチボールにしろウエイトトレーニングにしろ、ただ単にこなしているだけでした。ところが工藤さんは“今、この筋肉を鍛えるのは、ピッチングのこの動作に役立っているんだ”と、そこまで考えながらやっているんです。工藤さんは答えは教えてくれないんだけど、大切なヒントをくれる。自分が変わったのは、それからですね……」

 修羅場を制するには、どんなメンタリティが必要なのか。
「僕は“絶対に抑えてやる!”なんて思ったことはありません。“こんなピンチ、打たれてもしょうがないでしょう”と弱音を吐きながらマウンドに上がっている。開き直った方がいいタイプなのかもしれませんね」

 最後に、ひとつ質問。
――もし巨人のテストに落ちていたら、今頃何をしていたでしょう?
「ウ〜ン、平凡な仕事をして、休みに地元の友だちと草野球をやる。そんな生活だったと思いますよ」
 ひょうひょうと語る、その口ぶりが、なぜか妙に頼もしく感じられた。

<この原稿は2013年5月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

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