金山英勢は、高校に入っても、陸上競技とリュージュの“二足の草鞋”を履き続けていた。1年の冬、金山はリュージュで初めての海外遠征に帯同した。トリノ五輪(イタリア)の競技会場ともなったチェザーナでのトレーニングで、悲劇は起こった。16歳の金山は、ユース(14〜16歳)のスタート台から滑っていた。だが、好奇心も向上心もあった彼は「もっと上に上がりたい」と、コーチを半ば押し切るかたちで、本来はジュニア(17〜19歳)が滑走する高さからのスタートにチャレンジした。そこで金山は滑走中に操作を誤り、宙を舞った。そのまま勢いよくコース上に落下。立ち上がろうとした瞬間、「高圧電流が走った」という今まで感じたことのない激痛が金山を襲った。脳震盪も起こしており、気が付くと、担架で運ばれていた。

 運よく大事にはいたらなかったが、打ち所が悪ければケガで済む話ではない。リュージュとは常に危険と隣りあわせの競技なのだ。それでも金山は、リュージュをやめようとは思わなかった。“これがリュージュか……”との印象を抱いたものの、不思議と恐怖心は生まれなかった。彼は、次の遠征先のドイツ・ケニクゼーへも同行した。まだ左足を痛めていたため、スタート位置まで先輩に担いでもらい、滑走した。そこでも転倒し、全身アザだらけになったという。初めての海外遠征は“痛い思い出”となった。

 帰国後、すぐに病院に行った。診断結果は、左足の打撲だった。ただ、その後も痛みはやまず、夜も眠れぬ日々を過ごした。病院を6軒、7軒とまわり、ようやく8軒目の病院で「左足坐骨陥没骨折」と告げられた。MRIを撮ると、ケガの箇所には血が溜まっており、塊となっていた。手術するにしても、神経が集中している部位だったため、メスを入れることは容易ではない。「もう大好きな陸上はできないのか」と、ふさぎ込むこともあった。

 当時の様子を母親はこう語る。「走れる人を見ながら、走れない自分に苦しんでいるようでした」。それでも母親は陸上部を辞めることを許さなかった。「陸上との関わり方は色々ある。3年間は続けなさい」と諭した。そこで金山が選んだのは、マネジャー、トレーナーなどサポートする側ではなかった。やり投げなどの投てき種目にもチャレンジし、八種競技に転向したのだ。短距離選手としては勝負できなくなったとはいえ、続けるならやはり競技者でありたかったのだろう。もちろん、ケガとの闘いは避けられない。金山は痛み止めを打ちながら、レースに臨んだ。高校2年の時には、札幌支部大会で3位に入り、北海道高校陸上競技大会(全道大会)まで進出することができた。しかし、痛み止めやテーピングなどで痛みをごまかすのは限界にきていた。結局、全道大会は途中棄権。「最後まであきらめない」が信条の金山にとって、忸怩たる思いがあったに違いない。

 そのショックは大きく、競技を続けることを諦めかけた時もある。「最初は痛みで椅子に座ることもつらく、次第に無気力になっていきました。だから、どんどん悪くなる一方だった。足も細くなって、自分の好きなスポーツをもう何もできないだろうなと思っていました」。それでも金山は自らを奮い立たせた。「ケガをした後に痛み止めを打ちながらも、100メートルで初めて11秒台を出したことがあったんです。その当時のビデオを見たら、すごい足を引きずっていて、ぎくしゃくした走りでした。ただ、そのタイムを出せたことに微かな希望をもつことができたんです。それでもう1回、頑張ってみようかなという気持ちになりましたね」。その後、再び競技者として復帰するが、陸上は高校まででピリオドを打った。それはリュージュに人生を懸けると決めたからだ。

 ソチに向けて吹き荒れる逆風

 一方、リュージュでは、高校3年の冬に国際大会デビューを果たした。そして金山は大学進学後の2009年、1年の夏に日本ボブスレー・リュージュ・スケルトン連盟から、オリンピックの強化指定を受けた。これにより、彼はリュージュに専念。それはバンクーバー五輪の道が開きはじめた瞬間だった。それでも、当初は自分が行けるとは思わなかった。だが、シーズンインし、周囲から“行けるかもよ”と言われるうちに、「絶対行くしかない」との気持ちへと変わっていった。

 その年の大晦日、自宅で紅白歌合戦をテレビで観ていると、1本の電話がかかってきた。五輪代表選考についての知らせだった。結果は、落選――。金山は「実力不足だった」と割り切りつつも、やはり落胆は大きかった。
「(五輪会場の)ウィスラーは好きなコースだったので、滑りたい気持ちはあったんです。でも、その時に出ていたら、五輪出場で満足してしまって、その後は競技を続けていなかったかもしれません。落ちたからこそ、“次は絶対に出てやる”という気持ちが芽生えたんだと思います」
 何度踏まれても、立ち上がる雑草のような逞しさが彼にはある。

 しかし、そんな金山に、そしてリュージュ界全体に逆風が吹いた。バンクーバー五輪で日本は男子1人乗りで30位、女子1人乗りでは26位と失格。成績が振るわなかったこともあり、日本リュージュ連盟は日本オリンピック委員会(JOC)からの賃金補助を受けられる専任コーチの申請を辞退したのだ。これにより、日本選手は海外遠征にコーチ不在で臨まなければならなくなった。そこで金山は、日本連盟が提携するイタリアナショナルチームや国際リュージュ連盟のチームに帯同した。

「僕ひとりで海外のチームと一緒に行くことになったので、言葉の壁がありました。事後処理なども全部自分でしなくてはならなかったんです。その当時19歳の僕には、全くそういった知識がなかったので、とても大変でした。ストレスはあまり感じないタイプなのですが、“こんな競技やっていて意味があるのかな?”とまで思ったりもしました」。挫けそうな金山を支えたのは、家族の存在だった。「いつか絶対に報われる日が来るから」と、母親は彼の背中を押し続けた。
「母親にも手伝ってもらったりして、二人三脚でやってきたといっても過言ではないです。当時は、トレーニングしているだけで精一杯な状態だった。母親からは“そういうことは社会に役立つし、自分でやれるようになったら力になる”と言われ続けていました」

 追いかけているスターの背中

 逆風の中にも光はあった。現在、海外遠征を共にするイタリアナショナルチームには“最高の教材”がいる。金山の憧れであり、そしてリュージュ界のスーパースターのアルミン・ツェゲラーだ。39歳の大ベテランは、リレハンメル五輪から5大会連続でメダルを獲得。ソルトレイクシティ、トリノでは金メダルに輝いた。世界選手権も6度制している。そんなツェゲラーを金山は、競技者としてはもちろんのこと、人間的にも尊敬している。

 初めての出会いは、06年。当時は声をかけるのにも緊張したという金山だが、現在では分からないことがあれば、すぐに聞きに行くほど親しい間柄だ。「トップ選手はあまり自分の技術を他の選手に教えたがらないのですが、アルミンはすごく丁寧に教えてくれます」。後進の道標となるような存在なのだ。そんな彼を尊敬する金山もまた、日本に帰れば、後輩たちに自分の技術を惜しみなく伝えている。

 そして何よりツェゲラーに学ぶのは、競技に対する姿勢である。毎回毎回トレーニング内容を書き出しては、ビデオをじっくりと見て研究している。長くトップに立ち続ける選手の飽くなき向上心に金山も影響を受けている。そしてツェゲラーには金山が理想とする型がある。「常に冷静なんです。いいタイムを出すと、叫んだり、派手にガッツポーズして暴れまわる選手も少なくない。でも、アルミンは静かにガッツポーズだけ。滑る前も、ずっとひとりで寡黙にイメージトレーニングしている。かといって、“話しかけるなオーラ”を出しているわけではないんです」

 硬すぎず、緩すぎず。その自然体が金山にとっての理想型なのだ。「リュージュって、結果を意識して硬くなるとタイムは出ないんです。無意識というか、力の入り過ぎていない状態でいくとうまくいったりする競技ですね」
 憧れの背中は、まだ遠い。だが、見えないところにいるわけではないと感じている。彼は、その背中を追いかけることを決して諦めない。

 諦めず努力する才能

 リュージュの関係者から勧められたのをきっかけに応募を始めたマルハンワールドチャレンジャーズ。資金面で苦しんでいたこともあったが、自らが発信することで“競技の環境を変えられたら”との思いもあった。だが前年に落選したため、第2回も半ば諦めていた。それだけに「最終メンバーに選ばれました」と、担当者からの電話があった時、金山は間違い電話ではないかと思ったくらいだ。時間が経つにつれて徐々に実感が湧いてくると、沸々とやる気が出てきた。それは周囲から見ても明らかだった。この頃の金山を母親はこう感じたという。「目の輝きが変わりました。 小さい頃から褒めたことは、ほとんどありませんでしたから、“期待されることでこんなに喜びを感じるんだ”と思いましたね」

 オーディションでは競技の実情と、環境面の改善を訴えた。結果は14名からなる最終オーディションで協賛金100万円を獲得。その協賛金でイタリア製の中古のソリを購入し、新たな“相棒”を手に入れた。また、オーディションで他競技の選手と出会ったことも金山にとっては収穫となった。他のマイナー競技の選手も、決して恵まれた環境下ではない。そこで戦っている姿に、大きな刺激を受けた。

 金山の目標は、来冬のソチ五輪出場だ。プレシーズンの成績は世界選手権35位、W杯の世界ランキングは40位だった。今年の11月中旬から12月中旬までの結果を加えた時点でのランキング37位以内が出場権を獲得できる。ただし、各国3人までの制限があり、ドイツやイタリアなどの強豪国は、ランキング上位に4人以上の選手が入ってくることが起こりうる。その場合は37位以下の選手にも五輪出場の可能性があり、現時点の順位でそれを当てはめると、金山は33位。出場圏内ではあるが、彼より下位にいる他国の選手たちは、ここから目の色を変えてレースに臨んでくるはずだ。決して油断はできない。

 現在、日本人でW杯ランキングに入っているのは金山ただひとり。つまり日本リュージュ界でソチ五輪出場の可能性を持つのは、彼だけなのだ。1964年インスブルック五輪(オーストリア)から正式採用されたリュージュ。日本は、72年札幌五輪から前回の10年バンクーバー五輪まで出場を続けている。その灯が一度でも消えてしまえば、マイナー競技であるリュージュにとっては大きな痛手となる。つまり、日本リュージュ界の将来を金山はひとりで背負っているのだ。

 しかし、運命は残酷である。5月中旬、金山は練習中にケガをしてしまったのだ。それまで体は良い状態にきていた。ただ、その感覚と肉体にはズレが生じていた。走った瞬間、「“ブチッ”と音が聞こえた」という左ハムストリングの肉離れ。以前、ケガした付近の箇所であり、ほぼ断裂に近い状態だった。診断結果は全治3カ月――。それでも「いい意味でしか考えない」というポジティブ思考の持ち主は、「オレ、ラッキーだったわ」と前を向いている。近くにトレーナーがいたため、応急処置は迅速に行われた。さらに運ばれた病院には、以前、左坐骨を負傷した際の担当医がおり、7年前のケガを知る医師により診断もスムーズに行われた。それらの甲斐あってか、予定よりも順調に回復している。

 オリンピックシーズンとなる13-14シーズンは9月からスタートする。リハビリ、調整を含めると、ギリギリである。それでも自らの長所を「最後までやり抜く」と語る金山が、諦めるはずはない。「僕には何も才能がない。だから努力して埋めていく」と彼は言うが、努力こそ、金山の才能である。諦めない強い心を持つ不屈の男が、ソチで笑う姿を、皆が待っている。

(おわり)

(次回はアームレスリング・山本祐揮選手を紹介します。7月3日更新予定です)

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金山英勢(かなやま・ひでなり)プロフィール>
1990年9月26日、北海道生まれ。小学校5年の時に、リュージュと出合い競技を始める。同競技を続けながら中学、高校時代は陸上部にも所属した。札幌学院大学に進学後はリュージュに専念。09年にナショナルチーム入りすると、10年には全日本選手権で初優勝、以降3連覇を成し遂げる。12-13シーズンはアジア選手権2位、世界選手権35位。U-23世界選手権では2年連続となる8位入賞を果たす。W杯は全9戦に出場し、現在世界ランキングは40位。169センチ、76キロ。
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(競技写真提供:金山英勢)

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※このコーナーは、2011年より開催されている、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(杉浦泰介)
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