「相撲は負け出したりすると、やっていることがわからなくなる。たとえ勝っていても不安なところが実はあるんだよ。いつ負けるんじゃないかと、心で自分と闘っている。だから普通にできることが、できなくなっている時に原点へと戻る必要がある」
 栃煌山雄一郎の師匠である春日野親方(元関脇・栃乃和歌)が言う“原点”とは、相手を押して前へ出ることだ。それが相撲の基本であり、核だという。栃煌山が、その原点を培ったのは、安芸中学に進学してからだ。
 栃煌山が安芸中に進んだのは、監督を務めていた吉田道彦の存在が大きい。地元の1学年上の先輩が同校に通っていた縁もあり、栃煌山も小学6年時から中学へ稽古に行っていた。その時、出会ったのが、安芸中に赴任したばかりの吉田だった。小学生の栃煌山には吉田は“稽古の鬼”と映っていた。その吉田の指導を受ければ、自分は強くなれると信じたのだ。

 一方の吉田は、栃煌山と出会う前から、彼の存在を知っていた。栃煌山が小学2、3年の頃に出場していた地元の少年相撲の大会は、テレビ放映されていた。それを見ていた妹に「お兄ちゃん、この子、背が高うて、相撲が上手や」と教えられたという。それが吉田が栃煌山を知るきっかけとなった。吉田自身も栃煌山の取り組みを見て、「確かにええ相撲しとる。将来が楽しみだな」という印象を抱いた。そして指導者として、才能ある子供を目にし、「指導したい」との思いに駆られるのは当然だった。小学生の栃煌山が稽古に来た時には、「できたらこの中学で一緒にやらんか?」と誘った。こうして2人は、相撲部の監督と部員として、正式に師弟関係を結ぶことになった。

 中学では、稽古、稽古の日々だった。平日は学校の相撲場で汗を流し、週末は明徳義塾中、片島中と強豪校へ出稽古に向かった。吉田は当時を懐かしそうに振り返った。「毎日、かなり稽古していました。ほとんど休みがなかったんですよ。正月休みも2日ぐらいだったんじゃないですかね。あとはずっと稽古でしたから」

 週末の遠征は、高知市にある中高一貫の明徳義塾が中心だった。それは吉田が同校のOBであったことと、吉田の恩師・浜村敏之監督が栃煌山を買っていたからである。浜村は教え子の吉田に「時間があれば連れて来い。面倒みたる」と声をかけていた。元横綱・朝青龍など角界で活躍する関取たちを育てた名伯楽の目にも、栃煌山の才能は光っていたのだろう。当時、明徳義塾高には、中学横綱にもなった3学年上の菊次一弘がいた。のちの大関・琴奨菊である。栃煌山は菊次に胸を借り、相撲を教えてもらった。明徳への出稽古は吉田なりの狙いがあった。「先を見越すと、同学年の子に勝っても仕方ないんです。上の者を相手に自分の力を知り、そこから何をしていく必要があるのか。それを体で覚えてもらいたかった。2つ3つ上の先輩方に勝てないのは当然。その中で胸を借りてやっていくうちに、うまくいけば一番ぐらい勝てる時がくるかなと。そういうふうに経験を積ませたいと思ってやっていましたね」。圧倒的な稽古量に加え、質の高い相手との対戦経験は、やがて栃煌山の血となり肉となった。

 不器用な恩師の教え

 安芸中での稽古は、吉田自らが胸を貸した。「他の部員が敵わないんですよ。体格も違うし、力もあるし。だから僕が相撲をとって、稽古をするしかなかった」。相手がいなかったことで、当時、現役の高知県の国体選手でもあった吉田と胸を付き合わすことができた。稽古場では栃煌山の押しで、土俵際に追い込んでも、吉田は俵に足をかけて止めた。そこから栃煌山は、ほとんど前に進めない。相手は土俵際の残し方をわかっており、栃煌山は必死に押すが、なかなか土俵を割ることができなかった。そこから投げなどをくらい、地面に叩きつけられた。それでも栃煌山は何度倒されても、起き上がり、そしてぶつかった。その繰り返しで、頭や体中は砂にまみれて、真っ黒になった。傷だらけになりながらも、それでも必死に当たってくる栃煌山の姿勢に、吉田はハングリー精神やタフさを感じたという。こうして栃煌山は何度も何度も、吉田の胸にぶつかりながら、相撲の原点を叩き込まれたのだった。

 吉田は入学前から栃煌山に光るものを感じていたが、気になっている点があった。栃煌山は上背があり、足も長かったため、容易く相手のまわしがとれた。つまり差し身(相手の脇に手を差す体勢)が、自然にできていた。そのため、小学校時代から勝ち星を重ねていたものの、それは自らが意図してつくり出した状況ではなかった。「差したり、まわしをとることで楽を覚えたら、雄一郎の伸びが止まると思った。前に攻めていくのであれば、やはり基本は足を使うこと、相手に当たることだと。変えるというよりは、もう一遍、相撲をはじめたばかりのところを振り返ってみる必要があると思ったんです」

 自らも突き押し相撲を型とする吉田の相撲観は、そのスタイル同様、不器用で真っすぐなものだった。「当たりもせずに引く相撲、つまりいなすとか、立ち合いで逃げる相撲は嫌なんですよ。勝っても、負けても自分の相撲で勝負しなさいという指導しかしていない。とにかく相手に体ごとぶつかっていけと。当たって前に行きなさいしか教えなかった。だから投げや相手を崩す技は、全く教えていないんです」。栃煌山も恩師の教えに従い、ただひたすら頭から当たり、前に押すことを貫いた。この時、何百回、何千回と、愚直に繰り返した稽古が、栃煌山の相撲の礎となっている。

 全国制覇を手にするための肉体改造

 栃煌山とともに厳しい稽古に明け暮れた部員たちも成長し、栃煌山が中学2年時には、団体で全国中学体育大会(全中)に出場。安芸中としては11年ぶりの快挙だった。同校の快進撃はそれだけにとどまらず、初の決勝進出を果たした。その決勝では栃煌山個人は勝利したものの、長野の福島中に1−2で敗れ、全中制覇はならなかった。とはいえ、同校はそれまで3位が最高だったため、周囲からは祝福の声が溢れていた。だが、栃煌山は悔しくて涙を流したという。

 監督の吉田も、あと一歩届かなかった頂点への意欲を燃やし、次に最上級生となる栃煌山をチームの柱にしたいと考えた。そして“個人と団体で全国制覇”との思いで着手したのが、栃煌山の肉体改造だった。当時の彼は180センチ台の長身ながら体重は80キロ足らず。その線の細さは、土俵上の攻守両面において、相手への圧力に欠けるものだった。

 新チームを迎えるにあたり、“食べる稽古”が栃煌山の課題となった。昼は、丼ぶり山盛り2杯分のご飯を大きなタッパーに詰め込んだ。別の容器に入れたおかずに加え、学校で配られる牛乳パックは3本飲んだ。練習前には、パンと牛乳。終わってからはバナナと牛乳を食べた。吉田は栃煌山の母親や学校にも協力を仰ぎ、1日5食を義務付けた。

“稽古”の甲斐あって、栃煌山の体重はみるみる増えていった。2年の夏で75キロぐらいだった体重は、3年の春には100キロを超え、全中を迎える夏頃には120キロになっていた。すっかり相撲取りらしい体つきに変身した栃煌山は、吉田の狙い通りチームの核となり、2年連続で全中への出場に導いた。

 全中では、団体の先鋒としてチームを牽引した。準々決勝では、小学校時代からの宿敵・澤井豪太郎(現・豪栄道)を寄り切った。準決勝で星を落としたものの、チームメイトが連勝してカバーした。迎えた決勝では、青森の鰺ケ沢一中を2−1で下し、前年の雪辱を見事に晴らした。栃煌山自身もきっちりと送り出しで勝利し、優勝に大きく貢献した。さらに同日に行なわれた個人戦でも疲れを感じさせずに、連勝街道を突っ走った。決勝では相手を投げ飛ばし、中学横綱に登りつめた。目標としていた2冠を達成し、悲願の全国タイトルを掴んだ。監督の吉田の目論見と、栃煌山をはじめとする生徒たちとの地道な稽古が実を結んだ瞬間だった。「僕も運がついていたんですよね。(栃煌山の)2学年下の子も小学校から見ていた。そういった巡り合わせもあったんです。でも、一番はきつい練習に雄一郎たちがついてきてくれたこと。僕自身も手探りで、まわりからも批判されることもありましたからね。それでも、なんとか優勝できたのは生徒たちのおかげです」

 中学卒業後は、名門・明徳義塾に入学した。頻繁に出稽古に足を運んだ学校であり、強さを磨くためにはここだと考えたのだろう。小さい頃は、漠然とした夢に過ぎなかったプロの舞台も、この時には角界入りの覚悟を決めていた。憧れの関取は同郷の土佐ノ海(現・立川親方)。中学の先輩でもある土佐ノ海が幕内で勝ち越すと、安芸では花火が上がった。そんな地元のヒーローに憧れ、自らも大きな花火を打ち上げようと、角界入りへの道を突き進むのだった。

(第3回へつづく)
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栃煌山雄一郎(とちおうざん・ゆういちろう)プロフィール>
1987年3月9日、高知県安芸市生まれ。本名:影山雄一郎。小学校2年で相撲をはじめ、安芸中学校に進学し、3年時には全国大会を制覇した。中学生横綱となり、卒業後の明徳義塾高校では世界ジュニア選手権重量級を制するなど個人4冠を達成し、05年に春日野部屋に入門。05年一月場所で初土俵を踏むと、2年間、一度も負け越すことなく番付を上げた。07年三月場所新入幕、その場所で11勝をあげ、敢闘賞に輝いた。10年の九月場所で自己最高位の関脇に昇進。12年の五月場所では12勝3敗の好成績を収める。優勝決定戦で旭天鵬に敗れ、賜杯にはあと一歩届かなかったが、2度目の敢闘賞を獲得した。同年の九月場所では横綱・白鵬を破り、初金星。東前頭2枚目。通算成績は361勝294敗9休(7月7日時点)。三段目優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞2回、金星1個。



(杉浦泰介)
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