2010年春、里内猛はリオ・デ・ジャネイロでジーコに会い、その後、サンパウロ州の小さなクラブを回った。自分の基本にあるブラジルのサッカーを肌で感じ、学び直すつもりだった。スタジアムにも足を運び、リオのマラカナンスタジアムでは大雨の中、CRフラメンゴ対バスコ・ダ・ガマの試合を観戦した。フラメンゴには元ブラジル代表フォワード、アドリアーノが所属していた。かつて里内が長期滞在していた時代と違い、好況となったこの国にはアドリアーノのように著名なサッカー選手が戻ってくるようになっていた。ブラジルの社会、そしてサッカーが変わっていた。
(写真:ブラジルサッカーの“聖地”マラカナン)
 里内が日本に帰国したのは同年4月のことだった。とはいっても、彼は準備を済ませて、再びブラジルに戻るつもりだった。だが、成田に着いた翌々日、里内の電話が鳴った。大宮アルディージャの強化担当スタッフからだった。

「里さん、何しているんですか?」
「何もしていないよ。おとついブラジルから帰ってきた」
「あっ、そうなんですか? どっかに籍はあるんですか?」
「全然ない」
 電話の向こうの男は、何か思いついたようだった。
「分かりました。また電話しますわ」

 言葉通り、翌日電話があった。里内にフィジカルコーチを頼みたいという。2010年シーズンの大宮は韓国人の張外龍が監督を務められ、開幕戦こそ勝利したものの、その後は勝ち星を挙げられなかった。里内がフィジカルコーチ就任を打診される直前に行われた第8節清水エスパルス戦(4月24日)でも1対2と敗れ、1勝2分5敗の17位と低迷していた。

 里内は大宮に行くことになれば、ブラジルに戻ることはできなくなると頭の片隅で考えていた。ただ、自分の力を必要としてくれることは有り難かった。
「いつからチームに入ればええんや。6月ぐらいでええんか?」
 6月には南アフリカでワールドカップが行われ、Jリーグは中断する。調子のよくないJクラブは、その間にチームを建て直すための合宿などを行うことが常だった。

「いや、明日からです」
「明日から!?」
 思わず大きな声になった。
「それと監督が鈴木淳さんになります」
 強化担当スタッフの言葉を聞くなり、里内は「そりゃあかん」と慌てた。
「お前、監督にまずフィジカルコーチを誰にするか聞けよ」

 監督とは往々にして側近には気心の知れた人間を集めたいと考えるものだ。ゆえに監督とフィジカルコーチ、ゴールキーパーコーチはセットで動くことが多い。特にブラジルなどではその傾向が強かった。1961年生まれの鈴木は里内よりも4つ年下だった。しかし、監督は絶対である。鈴木の意向を聞かずにチームに入ることは失礼だと里内は考えていた。

「じゃあ、ちょっと監督に話してみます」
 それからすぐに再び強化担当スタッフから電話があった。鈴木から特にフィジカルコーチの指名はなく、里内に頼みたいという。4月27日、里内は大宮のフィジカルコーチに就任した。

 その3日後の5月1日、大宮はホームのNACK5スタジアムに京都サンガF.C.を迎えた。サンガもまた第8節終了時点で15位に低迷していた。そんなサンガのコーチには鹿島アントラーズで一緒だった秋田豊がいた。「妙な縁だなぁ」と里内は試合前に秋田と握手したという。この試合で大宮は京都に2対1で勝ち、チームはようやく2勝目を挙げて一息つくことができた。
(写真:今季は首位を走っている大宮だが、昨季までは毎年残留争いに巻き込まれるクラブだった)

 その後、里内たちは必死でチームを変えようとした。
――これじゃ勝てない。
――こういうところを改善しよう。最終的には12位で残留。とはいえ、降格した16位のFC東京とは勝ち点6差しかなかった。

 シーズン終了前から里内のところには次の契約の話が持ち込まれていた。U−21日本代表――2012年ロンドン五輪を目指す年齢別の日本代表のスタッフである。監督には鹿島、川崎フロンターレで同僚だった関塚隆が就任していた。

 関塚は自分の考えを押し付けることのない、柔軟な男である。気心の知れた人間たちと徹底的に議論を重ねて、いずれ日本代表の中核となる選手を育てていくことは魅力的だった。

 しかし、決してロンドンへの見通しは明るい、とは言えなかった。この年代の選手たちは、07年U−17ワールドカップには出場したものの、翌年のU−19アジア選手権でベスト4入りできず、09年U−20ワールドカップの出場権を逃していた。
 
 地理的な背景から、東アジアに位置する日本は欧州を中心としたワールドサッカーの潮流から取り残されがちである。ブラジルやアルゼンチンといった南米大陸のような独自のサッカー文化もない。その意味で、日本の育成年代にとって年代別のワールドカップは世界基準の経験を積む重要な大会だった。1999年のワールドユース(現U−20ワールドカップ)で日本代表はFIFA主催の国際大会として初めて決勝に駒を進めた。決勝ではスペインに敗れたものの、小野伸二、高原直泰、稲本潤一たちは黄金世代と呼ばれ、後の日本サッカー躍進の推進力となった。

 08年北京五輪のメンバー、本田圭佑、岡崎慎司たちは五輪からフル代表にステップアップして南アフリカワールドカップで華々しく活躍した。それと比べると、ロンドン五輪を目指す年代は地味だった。ただ、「だからこそやり甲斐がある」とも里内は感じていた。

 そんな里内の思いに呼応するかのように、U−21日本代表は10年11月に中国の広州で開催されたアジア大会で初優勝を収めた。決して日本の下馬評は高くなかったが、初戦で地元の中国代表を破ると、その勢いで頂点まで駆け抜けた。地味という印象は、徐々に弱くなっていった。

 10年シーズン終了を持って里内は大宮との契約を満了し、ロンドンを目指すU−21日本代表のフィジカルコーチに就任した。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。最新刊は『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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