2006年五月場所、栃煌山雄一郎は西幕下3枚目で5勝2敗と勝ち越した。新十両への期待もあったが、次の七月場所の番付編成会議で昇進は見送りとなった。この場所は十両から幕下へ転落する力士が少なく、先場所に勝ち越した幕下の東西筆頭の力士のみが昇進となった。栃煌山の母親は、その時に番付が絶対である大相撲を実感したという。「たぶん本人が一番つらいだろうなと思いながら、“こういう世界でやっているのか”というのが記憶に残っています。今までのアマチュアのトーナメントとは違い、プロは番付という世界。頭ではわかっていたつもりですが、本当にすごいところで自分の子供が頑張って生きているんだなと思いました」


 肩を落とす栃煌山の母親の下に春日野親方(元関脇・栃乃和歌)から電話が入ったのは、それから間もなくのことだった。春日野親方からはこう告げられたという。「まだ実力がなかったということです。自分で掴み取らないと、この世界はダメなんですよ。だけど、頑張ってやっていますから、お母さん、見ていてください」。師匠の言葉通り、栃煌山は実力で十両の座をもぎ取り、その壁を越えてみせた。七月場所、東の幕下筆頭に上がった栃煌山は6勝1敗の好成績を収め、文句なしでの昇進を決めたのだ。母親はそんな我が子の雄姿をテレビ越しに見守りながら、「逞しくなったな」と感心したという。

 土俵上で煌めいた若き関取

 九月場所の編成会議で十両昇進が正式に決まると、栃煌山は晴れて関取となった。序ノ口から所要10場所での十両昇進は、年6場所制となった58年以降では、貴花田(のちの貴乃花、現・貴乃花親方)、朝青龍らに並ぶ史上9位タイのスピード出世だった。四股名も本名の「影山」から、現在の「栃煌山」に変わった。「名前が2つになるというのは、なんとも言えない感じがしました。ただ関取になった実感もあって、うれしい気持ちもありました」

「栃煌山」という四股名は、春日野親方と母親が相談して決めた。春日野部屋の多くの力士がつける「栃」が頭につけられ、そこから煌めいて欲しいとの思いを込めて、「煌」を加えた。そして本名の影山から「山」をとり、「栃煌山」となったのだ。実は栃煌山自身は、記者会見当日まで四股名を知らされておらず、「記者の人たちに“四股名、どう思いますか?”“どういう由来ですか?”と言われたのですが、その時に初めて聞いたので返答に困りました」と、当時を振り返り、苦笑いを浮かべた。

 新たな四股名で土俵に上がった栃煌山は、その名に込められた想いどおり、角界で煌めいていった。新十両から2場所連続で9勝6敗と勝ち越すと、西十両2枚目となった一月場所では優勝争いを展開した。千秋楽で勝利し、10勝5敗の成績で豊響と霜鳥に並び優勝決定戦に進出。連勝した者が優勝する巴戦で、霜鳥には上手投げで勝ったものの、優勝した豊響に押し出しで敗れてしまった。栃煌山は惜しくも十両優勝は逃したが、翌三月場所から新入幕を果たす。所要13場所での幕内入りは、史上9位タイだった。

 ここまでの順調な道程を彼は「無我夢中」に走ってきた。それは戦いの舞台が幕内に上がろうとも変わらなかった。初日に白露山を寄り切って勝利し、序盤は3勝2敗。そこから7連勝と白星を積み上げていくと、優勝争いにも加わった。新入幕で賜杯を手にすれば、93年ぶりの快挙だった。しかし13、14日目で連敗を喫し、万事休す。優勝争いからは脱落したが、千秋楽で高見盛を寄り切り、11勝4敗で敢闘賞を獲得した。春日野親方が場所前に課したノルマの10勝を突破し、新入幕としては十分過ぎる出来だった。「もちろん勝ちたい気持ちはありましたが、対戦相手はやったことのない人ばかりだったので、自分の相撲をとろうと思いました。ただ思い切ってやった結果ですね」

 快進撃を止められた幕内の洗礼

 新入幕で快進撃を見せた栃煌山。だが、翌場所、ついに壁にぶち当たった。西前頭4枚目で臨んだ五月場所は6勝9敗に終わる。初土俵から13場所続けていた勝ち越しも止まってしまった。さらにそこから3場所続けての負け越し。「その頃は(顔を)張られたら、すぐに横向いてしまって、当たり削がれちゃうことがあったんです。ひとりがそれをやったら、それを見た他の力士も張ってくるようになった。“幕内は研究してくるんだな”と思いましたね」

 逆に言えば、それだけ周囲から警戒される存在になったのだ。もちろん、栃煌山とていつまでも同じ策にやられ続けるわけにはいかない。そのうち慣れてくると、あまり食わなくなってきた。そうなると敵は皆、一斉にやってこなくなった。しっかりと相手の相撲を研究し、対策を練ってくる。栃煌山はそこに十両と幕内との違いを感じたという。

 08年の一月場所で8勝7敗と、5場所ぶりに勝ち越した。翌三月場所では11勝4敗と新入幕以来の2ケタの白星を挙げ、初の技能賞に輝いた。ひとつの壁を克服したかに見えたが、上昇気流に乗るまでには至らなかった。勝ち越しと負け越しの場所を繰り返す日々が続いた。「(番付が)下の方に落ちないと勝てない時があったんです。“もっと勝てるだろう”と、自分では思ったりしていました」

 それでも09年は一月場所から2場所連続で勝ち越し、小結昇進を決める。初の三役だが、稀勢の里、豪栄道と同学年の力士たちは既に1段上の関脇に在位し、先を越されていた。栃煌山も10年の九月場所で関脇に昇進すると、その場所で11勝(4敗)を挙げ、2度目の技能賞を獲得した。しかし、大関とりの足固めとなる翌十一月場所で7勝8敗と負け越して、また一歩後退してしまう。その後は白星が先行する場所が続かず、番付は小結以上からなかなか上がれなかった。

 波乱の夏場所、初の平幕同士の優勝決定戦

 12年の五月場所、初日から横綱白鵬が敗れ、2日目には3大関に土がつく波乱の幕開けだった。栃煌山の番付は東前頭4枚目に位置していた。「あの時は優勝なんて全く考えてなくて、無我夢中でした。気が付いたら、あんなに勝っていた」という栃煌山は、千秋楽まで11勝3敗と、優勝争いの真っ只中にいた。3敗で並ぶのは、同じく平幕の旭天鵬、そして同学年の大関稀勢の里。4敗に白鵬ら3力士がいたが、千秋楽に栃煌山の対戦相手の大関琴欧洲の休場が決まり、栃煌山は不戦勝で12勝3敗となった。この時点で優勝争いは、旭天鵬、稀勢の里を含めた3人に絞られた。「気持ち的にはもう一番あるという心づもりでした。でもやっぱり正直、2人とも負けたら優勝だったので、どこかで“負けてくれないかな”との思いもありました。五分五分ぐらいでしたね。ただ(2人の)どちらかは勝ってくるだろうと、体は動かしていました」

 結果は旭天鵬が豪栄道を寄り切り、12勝3敗で栃煌山に並んだ。一方、稀勢の里は大関把瑠都に上手投げで敗れ、優勝戦線から脱落した。本割では決着が付かず、栃煌山と旭天鵬の優勝決定戦となった。師匠の春日野親方は、当時を振り返り、こう本音を口にした。「そりゃあ、一番簡単に勝つのがいい。旭天鵬が負けていれば、優勝は転がり込んできた。それが一番良いさ。“自分で勝って決めたかった”という綺麗事もあるだろうけど、棚ぼた的なものをオレは期待したよ。それも経験だろうし」

 初の優勝決定戦、勝てばもちろん初の賜杯。当然、尋常ではない精神的重圧が栃煌山を襲った。「緊張を通り越して、なんか変な感じでした」と地に足がついていなかった。さらに旭天鵬には、この日までの対戦成績が3勝10敗と分が悪い。本割では10日目に対戦し、肩透かしで敗れていた。

 支度部屋で汗を流し、迎えた史上初の平幕同士の優勝決定戦。栃煌山は立ち合いから低い姿勢で当たっていった。対する旭天鵬は左手で栃煌山の頬を張って、差しにいった。直後、旭天鵬は引いて、はたき込んだ。前に重心をかけていた栃煌山は、土俵上に前のめりに倒れ込んだ。わずか2秒2で決着がついた大勝負。軍配は旭天鵬に上がり、38歳7カ月の幕内最年長優勝が決まった瞬間だった。

「今思えば、集中し切れていなかったというか、もっと勝ちに徹しても良かったんじゃないかなと。向こうが絶対引いてくるのは、分かっていた。だからあまり当たらずに一歩だけ踏み込んで、中に入ろうかと考えたのですが、せっかくだから思い切って当たってみようという気持ちもあったんです。緊張もしていたので、どうせなら得意なことをしようと。その時点で負けていたのかもしれないですね。“絶対勝ちにいこう”との気迫が足りなかったかもしれない」と、栃煌山は悔やむ。

 師匠の春日野親方は敗因をこう分析する。「ひとつのミスで負けたわけよ。注意すべきところを怠ったから負けた。消去法でやっていけば、結果的にあれしかないんだから。当たって誤魔化して引くと。だけど、それをまんまと食っちゃったわけだよ。それは栃煌山にも言ったけど、その時の頭の中にはないんだよ。正常な精神状態ではなかったから。普段の稽古場じゃ食わないよ」

 優勝を目前にしながら、それを手にすることはできなかった。「応援してくれた人もたくさんいたし、部屋の人たちもすごくサポートしてくれた。それなのに“何をやっているんだ”という気持ちになりました。自分が負けた悔しさより“みんなに悪かったな”との思いがすごくあった」

 賜杯を手にすることは、栃煌山のみならず国内出身の力士にとっての悲願である。その一番の壁となるのが、横綱に君臨する白鵬だ。10年には歴代2位となる63連勝を記録し、現在まで26度の幕内優勝を誇る現代最強の横綱である。栃煌山にとっては「一生勝てないんじゃないかと思った時もありました」と、かつては14連敗を喫するなど苦手としている。しかし、平成の大横綱という壁を乗り越えなければならない。それは横綱を目指す栃煌山にとって、避けては通れない道だった。

(最終回へつづく)
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栃煌山雄一郎(とちおうざん・ゆういちろう)プロフィール>
1987年3月9日、高知県安芸市生まれ。本名:影山雄一郎。小学校2年で相撲をはじめ、安芸中学校に進学し、3年時には全国大会を制覇した。中学生横綱となり、卒業後の明徳義塾高校では世界ジュニア選手権重量級を制するなど個人4冠を達成し、05年に春日野部屋に入門。05年一月場所で初土俵を踏むと、2年間、一度も負け越すことなく番付を上げた。07年三月場所新入幕、その場所で11勝をあげ、敢闘賞に輝いた。10年の九月場所で自己最高位の関脇に昇進。12年の五月場所では12勝3敗の好成績を収める。優勝決定戦で旭天鵬に敗れ、賜杯にはあと一歩届かなかったが、2度目の敢闘賞を獲得した。同年の九月場所では横綱・白鵬を破り、初金星。東前頭2枚目。通算成績は370勝299敗9休。三段目優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞2回、金星1個。



(杉浦泰介)


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