「ニヒト・アラカワは地球上で最も勇敢な男かもしれない!」
 オマー・フィゲロア対荒川仁人戦を中継した「Showtime」の実況担当は、激闘の興奮から試合中に思わずそうまくし立てた。
 アナウンサーがときにオーバーに語り過ぎるのは、どの国でも同じ。しかし、7月27日に行なわれたWBC世界ライト級暫定王座決定戦を目の当たりにしたファンは、誇大表現にもそれほど違和感は抱かなかったかもしれない。
(写真:打ちつ打たれつの激闘を演じた2人はアメリカのファンに名を売った)
 テキサス州サンアントニオで開催された暫定タイトルマッチは、近年稀にみる激闘となった。結果だけを見れば、第2、第6ラウンドに2度のダウンを奪ったフィゲロアの圧勝(判定は119−107が1者、118−108が2者)。しかし、この試合は単なる平凡なワンサイドファイトからはほど遠かった。

 2人が繰り出した合計2000発以上の手数はライト級タイトルマッチ史上最多。年間最高ラウンド候補となった第3ラウンドをはじめ、真っ向勝負のミックスアップでAT&Tセンターに集まった8,811人のファンを沸かせ続けたのである。

「凄い試合だったね。(あなたのことを)尊敬する以外にないよ」
 試合終了直後、力を出し尽くした敗者に歩み寄ったフィゲロアはそう語りかけたという。その言葉は、実況アナウンサーに限らず、会場、テレビで目撃したすべての人間の想いを代弁していると言えたのだろう。
 
「まずフィゲロアが強かった。そして結果を出せずに申し訳なかったです。自分にできたのは、頑張ることと諦めなかったことだけでした」
 荒川本人がそんな殊勝なコメントを残した一方で、米メディアのこの一戦に対する反応はかなり凄いものがあった。

「言葉でこの試合を正確に表現することはできない。フィゲロアと荒川が繰り広げた死闘は、観ているものに畏怖の念を感じさせるほどだった。2013年は好試合が多かったが、今戦こそが年間最高試合の最有力候補だろう」
「ESPN.com」のダン・レイフィール記者が自身のコラム内でそう記述したのに続き、「MaxBoxing.com」のスティーブ・キム記者は「試合前は無名の存在だった荒川だが、そのハートの強さと勇気はしばらくは忘れられないだろう」。

「Showtime」の解説者のアル・バーンスタイン氏も試合中に「まるでアーツロ・ガッティ対ミッキー・ウォード(02〜03年、3度に渡る伝説的な激闘を展開したライバル対決)のようだ」と述べるなど、業界の著名人たちがそれぞれ絶賛を続けた。

 もともとボクシングをエンターテインメントと考えるアメリカでは、単なる勝ち負けだけでなく、試合の面白さも追求される。必ずしもエリート王者と言えなかったガッティが名誉の殿堂入りを果たしたことが示す通り、リング上で飽くなき“勇敢さ”と“勝利の意志”を示す選手は高く評価される。

 フィゲロア戦後、荒川はオスカー・デラホーヤ氏からも直接、言葉をかけられたという。筆者は諸事情で、この試合の現地取材は叶わなかったが、それでも周囲のボクシングファン、記者から盛んに感想を求められた。
(写真:ゴールデンボーイ・プロモーションズのデラホーヤ氏(右)も荒川の闘志を賞讃)

 キム氏の言葉通り、世界的には完全に無名だった“童顔のスナイパー”が、フィゲロア戦の1試合で大きく知名度を上げたことは間違いないだろう。アメリカのテレビ局が再起用に興味を持つことも確実。遅かれ早かれ、荒川にはアメリカで試合をするチャンスがまた訪れるのではないか。

 もちろん、先に繋がったことを喜ぶだけでなく、荒川もさらに進化する努力を続けなければいけないのも確かである。
 本場のファンを感嘆させる好試合を見せられた点は胸を張ってよいが、結果だけをみれば、昨年のダニエル・エストラーダ戦に続き、世界ランカー相手に2連敗。いくら度胸は示しても、強豪相手に負けが続くのはやはりいただけない。特に日本の業界の趨勢にならい、今後も世界タイトルホルダーを目標とするなら、これ以上の敗戦は致命傷になりかねないだろう。

 次に与えられるチャンスでは、ファンを魅了するのと同時に、勝利を確実にもぎとらなければならない。いずれ実現するであろうアメリカでの第2戦は、荒川のキャリアを左右する大一番となるはずだ。

「11ラウンドにチャンスが来たときに決め切れなかったこと、中盤からセコンドの指示通りに動けなかったこと、今回は良かったこと、そうではなかったことをたくさん見つけた試合でした」
 フィゲロア戦の自身を、荒川は冷静に振り返っている。

 速攻型の相手にいきなりインファイトを挑み、勢いをせき止めた戦い方は理に適っているように思えた。第2ラウンドのダウン後もすぐに回復し、序盤を乗り切った頃には「荒川が勝てる展開になっている」と個人的には感じた。

 その通りにはならなかった理由は、端的に言って3つ。キャリア不足ゆえに真価を懐疑視されることも多かったフィゲロアが、実際には十分に世界レベルと思えるスタミナ、タフネス、冷静さを備えていたこと。ペースが少しずつ荒川の方に傾き始めているように見えた6ラウンドに、フィゲロアが2度目のダウンを奪って再び流れを奪い返したこと。そして何より、荒川に流れを無理矢理にでも引き寄せるために必要な攻撃力がなかったこと。
(写真:華やかなファイトウィークのイベント参加も良い経験になったはずだ)

 今後を考えたとき、特にこの3つ目の克服が荒川の最大のカギとなるのだろう。
「常に同じペースで試合をしてしまう。ヤマをつくるときにはつくらないと。昔から思っていたことですけど、世界レベルを経験する中で特に見えてきた自分の課題だと思っています」
 エストラーダ戦後にはそう語っていたクレバーなサウスポーなら、もちろんそれに気づいているはずだ。

 状況に応じたパンチの強弱とメリハリは、タフネスも並外れた世界の強豪たちに立ち向かうためには必須の要素だ。倒すまで行かずとも、分かりやすい形でポイントを奪う工夫は絶対に必要である。31歳のベテランがオフェンスに磨きをかけるのは簡単ではないが、その至難を成し遂げたとき、大舞台でも“善戦”以上の結果が見えてくるのではないだろうか。

「“敗者なき戦い”フィゲロアと荒川が年間最高試合候補の大激闘」
 ボクシングHP「Sweeet Science」のマイケル・ウッズ記者が記した今回の世界戦レポートには、そんなタイトルが付けられていた。

 日本人ボクサーへの高評価はうれしいが、長く語り継がれるであろう好ファイトの後でも、荒川の頑張りを「タイトルマッチ勝利と同等」と語るのは言い過ぎかもしれない。特に世界タイトル奪取に依然として大きな価値を見出す日本ではなおさらだろう。たが、決して遠くない将来、荒川がフィゲロア戦を重要なターニングポイントとして振り返る可能性は少なからずあるに違いない。
(写真:荒川と八王子中屋ジムの挑戦は続く(中央は中屋会長、右は東洋太平洋スーパーウェルター級王者チャーリー太田))

 そのために必要なものをしっかりと見つめ、着実に、場合によっては劇的に、自身を強化できるかどうか。そして、陣営は的確なマッチメイクでさらなる強豪との対戦を実現させることができるか。

 真夏のテキサスで、知名度、評価、勢いを得た。荒川と八王子中屋ジムにとって、今後しばらくが極めて重要な時間となることは間違いないはずである。

(写真提供:八王子中屋ジム)

杉浦大介(すぎうら だいすけ)プロフィール
東京都出身。高校球児からアマボクサーを経て、フリーランスのスポーツライターに転身。現在はニューヨーク在住で、MLB、NBA、NFL、ボクシングを中心に精力的に取材活動を行う。『スラッガー』『ダンクシュート』『アメリカンフットボールマガジン』『ボクシングマガジン』『日本経済新聞』など多数の媒体に記事、コラムを寄稿している。

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