「なんだ、この競技は!?」
 小学6年だった田中(旧姓=増田)蕗菜は、偶然テレビで見た球技に目を奪われた。小さなボールを、猛烈なスピードで蹴り合っている。画面の向こうで行われていたのは、セパタクローだった。セパタクローはマレー語の「セパ」(蹴る)と、タイ語の「タクロー」(ボール)の合成語。プラスティック製で籠状に編まれたボールを、ネットを挟んで脚や頭を使って相手コートに入れ合う。東南アジア各地で9世紀ごろから行われている。「足で行うバレーボール」とも呼ばれ、当時、バレーをやっていた田中も「バレーと似ていておもしろそう」と関心を抱いた。

 セパタクローは、基本的には3人が1組となってレグ(チーム)を形成し(2人1組の種目は「ダブル」という)、対戦する。ポジションはアタッカー、トサー、サーバーの3つに分かれており、3セットまた2セット(1セット15点)先取形式で勝敗を争う。

 女子のセパタクローは、コートの広さ、ネットの高さは女子が145センチ(男子は155センチ)。「足で行うバレーボール」と先述したが、バレーと大きく異なる点として、「腕、手を使ってはいけない」「1人で続けて3回までボールにタッチしてよい」「守備位置のローテーションはない」「サーブ権は3回ずつで交代する」ことが挙げられる。

 最大の特徴はなんといってもアクロバティックなプレーだ。サッカーでいうジャンピングボレーやオーバーヘッドキックが連続して繰り出される。アタックは、男子選手で時速140キロを超えることもある。スピーディーでアクロバティック。これがセパタクローの大きな魅力である。

 そんなセパタクローに目を奪われた田中だったが、実際、競技に触れる機会はなかなか訪れなかった。ようやく田中がセパタクローとの再会を果たしたのは2005年、彼女が進学した日本体育大学でのことだった。

 活きたバレーボールの経験

 田中は高校までバレー部で活動していたが、大学ではチアリーディングもしくはダブルダッチをやろうと考えていた。
「いろいろ考えて、音楽に乗って何かをやりたかったんだと思います(笑)」
 だが、チアリーダー部を見学に行った際、「何か私には合わない感じがした」という。次はダブルダッチサークルの見学を考えていたが、大学内は新入生を勧誘する各団体のブースや人で溢れていた。そんな時、「セパタクローサークル」という文字を見つけた。

「あっ、“セパタクロー”って小学生の時にテレビで見た競技だ」
 ふと思い出した田中は、セパタクローサークルの体験会に参加した。

「同好会やサークルと聞くと、体育会に比べて“ゆるい”というイメージがあったんです。でも、セパタクローサークルは違いました。みんなでしっかりと体操をしたり、走ったり……。“部活みたいにきっちりしているんだな”という第一印象を受けました。そして実際、球を蹴ってみたら、すごく楽しかった。ゼロからの経験なので、先輩に教えてもらったことが、やればやるほどできるようになる感覚が新鮮でした」

「これだ!」――田中はダブルダッチサークルの見学に行くことなく、その場でセパタクローサークルへの加入を決めた。

 ポジションはトサーを選択した。というのも、田中はバレー時代にセッターを務めていた。アタッカーに打ちやすいボールをトスするという役割や考え方は、セパタクローのトサーも同じだった。その一方で、「攻撃的なポジションになりたい」とも思っていたという。
「バレー部ではずっとセッターだったし、派手なポジションをやりたいと。でも、先輩から“トサーはサポート役だけど、攻撃もしていいんだよ”と言われて、両方できるんだったら、トサーがいいと思ったんです」

 バレーの経験は他にも活きた。
「アタックのレシーブ位置は、アタッカーがいて、ブロックがいた時に、どこにポジショニングするかはバレーと同じなんです。他の人よりは、ポジショニングは得意でした。あとジャッジの部分も慣れていました。バレーやバドミントンなどをやっていた人は、ライン際の打球のアウト、インを一瞬でジャッジするという感覚を持っている。ネットとの距離感も早くつかめましたし、頭でボールを受けることにも恐怖感がありませんでした。これはバレーをやっていたからだろうなと思いますね」

 テレビで競技を知ってから約7年、田中はようやくセパタクロー選手としてのスタートを切った。

 世界大会で受けた衝撃

 大学1年時には、競技経験が2年未満の選手が出場する新人戦で優勝を果たすなど、田中は仲間とともに勝利を積み重ねた。そして、1年目からエントリー制限のない全日本選手権にも出場した。
「学生大会では、勝つことはできていました。ただ、全日本となると、日本代表選手のいるチームと対戦することになります。私も、最初はボコボコにやられました(笑)。1試合で2〜3点しかとれなかったですからね。代表の人はすべてのプレーにおいてレベルが違うなと感じました」
(写真:高須力)

 もっと高いレベルを感じてみたい――そう思っていた田中に、大きなチャンスが訪れた。大学3年になった08年、日本セパタクロー協会が、代表選考トライアウトを開催したのだ。田中は「自分は今、どれぐらいできるんだろう。先輩たちのプレーも見たい」という思いからトライアウトに参加した。結果は見事に合格だった。田中は、その後の世界大会への選考会も経て、同年のキングスカップ(世界選手権)に日本代表として臨むことになった。

「まさか自分が選ばれるとは思っていなかったので、あわててパスポートをつくりました(笑)。初めての世界大会は代表に入って間もなくで、もう右も左もわかりませんでした。それがよかったのか、少し試合に出た時は、逆に緊張しませんでしたけどね」

 田中は当時をこう振り返った。初の世界大会は、わずかな出場時間ということもあり、手応えというものはさほどなかった。しかし、大会では衝撃的な光景を目の当たりにした。それは長年、日本女子セパタクロー界を牽引し続けている奥千春や青木沙和らが、苦戦し、敗北する姿だった。
「それまで、奥さんたちが負ける姿を見たことがありませんでした。その時に先輩たちが“世界で勝つこと”を本気で目指しているのを強く感じましたね。このことは、代表に入らないとわからない部分でした」

 本場・タイの試合を見た時は、あまりのレベルの違いに、ただ驚くしかなかったという。速い攻撃、パワフルなアタック、ブロックの高さ……女子選手ではあるものの、試合展開は男子のそれらと遜色なかった。
「それまで私は日本のセパタクローしか知りませんでした。これが本場のセパタクローなのか、と思いましたね」

 帰国後、田中は今まで以上に練習に取り組んだ。競技を始めて3年――田中は世界での勝利を目指す、“ワールドチャレンジャー”となった。

(後編につづく)


<田中蕗菜(たなか・ふきな)>
1986年12月29日、東京都生まれ。旧姓=増田。小学6年時、テレビでセパタクローの存在を知る。小中高はバレーボール部でセッターとしてプレー。日本体育大学1年時にセパタクローを始める。ポジションはトサー。大学卒業後は、くにたちキャッツアイに所属している。全日本選手権を2度、全日本オープン選手権は1度制している。大学3年時(08年)に日本代表初選出。キングスカップに6大会連続出場し、3度のディヴィジョン1準優勝を経験。身長156センチ。

>>athleteyell
>>ブログ「☆FU――のブログ☆」

【10月22日(火)、渋谷でセパタクローイベント開催!】

「Extreme Sepak-Takraw 蹴 KELU」HP

2013年10月22日(火)@Shibuya O-EAST
18:00 OPEN/19:00 START

【出演者】
セパタクロー日本代表、MC AK/DJ MIKO、球舞 feat.我が家 坪倉

指定席・エキサイティングシート 4000円、スタンディング 2500円
※ドリンク代別途 500円

【プレイガイド】
ぴあ/ローソン/e+/O-EAST店頭
Pコード:209-486
Lコード:34549

『第3回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、5名のWorld Challengers決定!
>>オーディション(8月27日、ウェスティンホテル東京)のレポートはこちら


※このコーナーは、2011年より開催されている、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(文・写真/鈴木友多)
◎バックナンバーはこちらから