この時期になると、毎年うんざりすることがある。FAをめぐるニュースである。いや、制度そのものをとやかく言うつもりはない。プロの入り口にドラフトという制度があるのだから、FAという制度は、いわば当然のものだろう。そういうことではなく、日本球界独特と思われる慣習が、どうにも気持ちよくないのだ。
 ほら、FAを宣言する際に、選手が必ず「他球団の評価も聞いてみたい」と言うでしょう。獲得に乗り出す球団の側は球団で「君を戦力として最大限評価している」とか言うらしい。そりゃそうだ。うそでもそう言う。その結果、選手は「高く評価してもらいました」と、大いに喜んでみせる。なんだかなぁ。

 なにしろ交渉ごとなのだから、球団側は選手を褒めるに決まっているし、ちょっと褒められたと言ってニヤニヤする一流選手というのも、興ざめではありませんか。FA宣言できる選手というのは、わざわざ他球団に褒めてもらうまでもなく、ひとかどの成績をあげているのだから。くどき文句の品評会をやっているわけでもあるまいに、この慣習は、もう少しなんとかなりませんかねぇ。

 それはさておき――。
 過日、所用で広島へ行った。書店やお土産店などを見ると、どこも前田智徳引退記念の赤いデザインの雑誌や書籍がうず高く積まれたコーナーができている。あらためて、前田という野球選手の人気の高さを思い知った。かく言う私自身も、これまでの人生で一番好きだった打者なので、つい、いろいろ買い込んでしまいました。

 では、前田智徳とは何だったのか。これについては既に、数多の論評が出ているので、ここでさらに付け加えることはないのかもしれない。天才かどうか、というありがちな話題は避けるとしても、打者として、内角の打ち方が際立っていたことは、間違いあるまい。

<内角をうまく打たれて、こういうスイングをする打者もいるんだと驚いたことがよくあった>(中日・山本昌の発言。『Number』11月28日号「その一撃は鬼神の如く」阿部珠樹)
 より詳しく説明すると、
<何より感心したのは内角球を打つ技術だ。普通ならファウルか空振りするはずの球を、逆にフェアゾーンに入れてくる。左打者のスライス。>(佐々岡真司氏の評論。「スポーツニッポン」10月4日付)

 他にも多くの証言がある。前田がインコースを芯でとらえて、きれいに振り切っていた、という印象は、どなたにもあるのではないだろうか。前田という打者をひと言で評すれば「美しかった」というのが私の持論なのだが、その原点は、インコース打ちの技術にあったのである。

 徹底された美学

 ところで、買いこんだ“前田関連資料”に目を通していて、抜群に面白かった記事がある。堂林翔太のインタビュー「宿命づけられた試練」(『広島アスリートマガジン』特別増刊号)である。堂林については、今は詳しく触れない。広島で期待の若手だが、今季は大不振で、しかも、8月に死球を受けて左手を骨折し、シーズンを棒に振った。来季に再起をかけている、ということを知っておいてもらえばいい。

 この若手野手に対して前田は、引退会見の前日に、なんと4時間、話をしたのだそうだ。現役時代は、あまり人と口をきこうとしないことで有名だったけれども、いくら引退を決めたとはいえ、一転して4時間話すというのも、なかなか前田らしく、尋常ではない。ぜひ、その4時間の内容をつぶさに知りたいと思うけれども、記事からわかるのは、そのほんの一部である。

 以下、堂林の発言。
<僕の場合、打つ瞬間にバットを寝かせているので、『神興を担ぐような打ち方、やめぇ』って。まずはそこを直してからだと>(同)
 別の箇所。
<『あのひとつのフォーム(バットを寝かせる)でだいぶ変わった』と。12年はスッとバットが出ていたのに、13年はワンクッション置いてから出ていると指摘されました>(同)

 これは貴重な証言だと思う。つまり前田は、堂林の12年のフォームと13年のフォームを比べて、動作がひとつ増えていることが、不振の原因だと見抜いていたということだ。それが「バットを寝かせる」動きであったために、これは想像だが、まず最初に「神輿を担ぐような打ち方、やめぇ」と言い放ったのではあるまいか。

 もちろん、その細かい観察眼に感心することもできる。それよりも、はからずも吐露された、前田の打撃に対する美学を読み取りたい。彼は、少しでもバットのヘッドが寝るような動きが嫌いなのである。それから、もちろんフォームに微塵もムダな動きが含まれることを許せない。

 打者なら誰でもそうだ、と言われるかもしれない。しかし、前田はこの美学を、生涯かけて徹底して追求した。凡百の一流選手とは、その追求の徹底ぶりにおいて、大きな懸隔があったのではないか。そこに、彼だけが実現できたバッティングフォームの美しさの原因がある。

 一切の不純物のない動き

 別の傍証を出そう。10月3日の引退試合を控えた、1日の練習後の会見である(この日もメディアに対して、ことのほか冗舌であったという)。
「(最後の打席では)ゴロを打って走るのだけは避けたいです。内野フライか…できればファウルフライ。あさって、ヘッドが下がりますけど許してください。力負けしますから」(「スポニチアネックス」10月2日配信)
 この「ヘッドが下がりますけど許してください」が秀逸である。しかも彼の美学を間接的に見事に表現している。

 ヘッドが下がってはいけない――これもまた、そんなのバッティングの基本だろう、と言われるかもしれない。もちろん、そうだろう。だが、普通、それを引退試合まで意識するだろうか。ここには、ヘッドの下がるスイングは100%許せない、という徹底した意志がある。その100%を自らに課す生き方を「純粋な打撃思想」と形容しても、あながち的外れではないだろう。

 個人的には、前田という打者は、構えてからスイングするまでの、両足の動きも美しかったと思う。やや両ひざを締めて構え、きわめて自然にステップして、ボールをとらえる。そこには、無駄な動きは一切ない。スムーズで純粋な動きだけがある。それが、ヘッドの立った、一瞬たりとも無駄のない上半身の動きと連動して、スイングとなる。「美しい」というのは、スイングという目的に対して、一切の不純物を排除した、純粋な動作の謂だったのである。

 さらに言いつのれば、「純粋な動きだけがある」ということは、その動作にまつわる世俗的な要素が、おのずから消されていくということだろう。もちろん、現実には日本社会の一隅で行なわれているプロ野球のペナントレースの試合のひとつの打席なのだけれども、前田のスイングには、そのような世俗の条件を脱色し、スイングそのものの本質に観客の視線を向かわせる力があった。

 個人的な話で恐縮だが、亡くなった母親が思わずもらしたひと言をよく覚えている。母は野球などまったく興味をもてない女性だった。その日、たまたま広島戦のテレビ中継をやっていた。画面に前田の打席が映し出された。
「この人は、『すがた』がきれいじゃ」
 無意識に喚起された「すがた」という言葉が、世俗を超越してスイングの本質に到ろうとした前田という存在を、よく言い取っていないだろうか。これが究極の前田論だと、密かに思っている。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者
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