明けましておめでとうございます。2014年も、BCリーグおよび信濃グランセローズの応援、どうぞよろしくお願いいたします。さて、昨オフに球団から発表された通り、今シーズンは監督としてチームの指揮を執ることになりました。昨シーズンはピッチャーとして入団し、復帰に挑みましたが、結局1度も実戦マウンドに上がることはできませんでした。楽しみにしてくれていたファンの皆さんには、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。その分も、今シーズンは創設以来悲願である初優勝を目指して頑張っていく所存です。
 今回はまず、昨年グランセローズに入団した経緯から話したいと思います。正直に言えば、入団前の僕は日本の独立リーグにまったく興味がありませんでした。時々、スポーツ雑誌などで目にすることがあっても、「へぇ、やっているんだ」などとしか思わなかったのです。なぜなら、どうせ野球のレベルは低いのだろうと思っていましたし、自分がそこでプレーするなど、まったく想像していなかったからです。実際に入ってみると、「この選手、頑張ればNPBにいけるのでは?」という原石がゴロゴロいましたし、「これが最後のチャンス」という思いで来ている選手が多く、ひたむきに練習する姿を見て、自分の方が刺激を受けたくらいなのですが……。

 そんな僕が、なぜグランセローズに入団することになったのか。それはあるひとりの冒険家との出会いがきっかけでした。11年11月、僕は5度目の肩の手術をしました。リハビリを行いながら調整し、一時は良くなっている実感を得たこともありましたが、結局昨年1月に痛みが再発したのです。そこで、僕はもう野球を諦め、他の仕事を探して、次の人生を歩もうと考えました。

 そんな時に出会ったのがブラインドセーラーの岩本光弘さんです。岩本さんは昨年6月、キャスターの辛坊治郎さんとヨット太平洋横断にチャレンジしましたが、途中遭難してしまい、海上自衛隊によって救助されました。そのニュースは新聞やテレビで大きく取り上げられましたので、岩本さんの名前を覚えている方も多いことでしょう。太平洋横断の約3カ月前の3月10日、岩本さんは東日本大震災の被災地、福島県の高校のヨット部に練習艇を寄贈するためのチャリティとして、サンディエゴハーフマラソンに出場しています。縁あって、僕は岩本さんの伴走を依頼されたのです。

 2月から2人で練習を始めたのですが、一緒に走ったり、3カ月後に控えた太平洋横断の話を聞いたりするうちに、岩本さんのパワーに圧倒されている自分がいました。そして、エネルギッシュな岩本さんに感化され、諦めていた野球への気持ちがどんどん膨らんでいきました。
「自分も、最後まで諦めずに挑戦しよう」
 サンディエゴハーフマラソン後、僕は再び復帰を目指すことにしました。

 “当たり前”を徹底

 とは言っても、果たしてどこで復帰できるのか……。そんなことを考えているところに、「日本の独立リーグでやってみないか」という話をいただいたのです。そして6月、僕はグランセローズに入団しました。1月に痛みが再発して以降、肩を休ませていたのが良かったのか、その頃には肩の調子も良く、入団して2、3カ月間は練習でバッティングピッチャーもできていました。「今度こそ、いけるかな」。自分でもそう期待していたのです。

 ところが、僕の最大の武器であるスライダーのコントロールが戻らなかったのです。原因は、5度の手術で指の筋力がなくなってしまったことにありました。例えば、右打者の真ん中からアウトコースへのスライダーを投げようと思っても、打者の頭付近にすっぽ抜けしまうのです。なんとかコントロールしようと無理をして投げていると、肩を痛めてしまいました。今度こそ、限界だと思いました。

 そこで、今の僕には何ができるのだろう、と考え始めたのです。その時に目にしたのが、野村克也さんの著書にあった<財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上とす>という言葉でした。
「自分は何を残してきただろう……」
 これまでの野球人生を振り返ってみると、僕は自分自身を高めるためにずっと野球をやってきました。人を残すことなど、まったくしてこなかったのです。そこで、僕は指導者として人を育てたいと思いました。

 そして縁あって、僕は今シーズン、監督に就任しました。初めて指導者としての道を歩むわけですが、選手が技術だけでなく、人間的成長もできるような指導をしていきたいと思っています。そのためにも、“当たり前”を徹底していきます。例えば、野球の事で言えば「全力疾走」「仲間への声かけ」「カバーリング」、野球以外の事では「挨拶」「清掃」「時間を守る」「身だしなみ」などです。どれも高校時代までは、当たり前のこととしてやってきたことばかりです。そうしたことを改めて徹底したいと思います。なぜなら人間的成長なくして技術的進歩はありませんし、そうした部分を踏まえてこそ、真の成功者となるからです。

 ドラフト指名・柴田にあった“学ぶ力”

 さて、昨シーズンは信濃から5人目のNPB選手が誕生しました。オリックスに7位で指名された柴田健斗(中京大中京高−中京大−エディオン愛工大OB BLITZ)です。彼は探究心が旺盛で、学ぼうとする意欲が人一倍あります。実は私が入団して、真っ先にグラウンドで話しかけてきたのが柴田でした。
「大塚さん、プロで活躍するには変化球はひとつでいいんでしょうか? それともやっぱりたくさん球種はあった方がいいんでしょうか?」
 そう聞いてきたのです。私は「スペシャルなものがひとつあれば十分に通用する。他の球種は、ある程度曲がっているくらいでいい」と答えました。そして、伝授したのが僕の最大の武器であるスライダーです。

 また、こんなこともありました。シーズン途中、柴田は調子を落としていた時期がありました。一番の原因は真っ直ぐの腕の振りにあると僕は感じていました。そんなある日、僕が他の人と当時チームメイトだったドミニカ出身のピッチャー、サミー(サムエル・ヘルバシオ)の投げ方について話をしていた時のことです。サミーは非常に柔らかいフォームで投げるピッチャーで、腕の振りがかたい柴田とは正反対でした。その時、近くには柴田がいました。彼が聞き耳をたてて、僕たちの話を聞いていることはすぐにわかりました。すると彼は翌日早速、僕たちが話をしていたサミーの投げ方を取り入れていたのです。こうした「何かを吸収しよう」と常にアンテナを張っていることこそが、彼の成長を促したのです。

 具体的にどんな部分を取り入れたかというと、サミーは足を上げて体重移動をする際に、ボールを握ってグローブの中にある手を一度、グローブから出し、そしてまたグローブに入れてパチンと音を鳴らすのです。この出し入れする動作によって、要らない力が抜け、柔らかいフォームで投げることができているのです。これを柴田は早速やっていたのですが、明らかにそれまでよりもかたさが取れ、球筋も変わっていました。

 もともと柴田は身体が強く、初めてピッチングを見た時、真っ直ぐに力があり、正直「このリーグに、こんなピッチャーがいるんだ」と驚きました。と同時に、練習もしっかりとしていましたから「彼ならNPBに行けるな」と感じました。それが現実のものとなり、僕も非常に嬉しいです。しかし、本当の勝負はこれからです。ぜひ、一軍のマウンドで投げる姿を見せてほしいと思います。そうすれば、グランセローズの選手にもいい刺激となることでしょう。

大塚晶文(おおつか・あきのり)>:信濃グランセローズ監督
1972年1月13日、千葉県生まれ。横芝敬愛高、東海大、日本通運を経て、97年、近鉄にドラフト2位で入団。セットアッパー、クローザーとして活躍し、2001年には12年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。02年オフ、中日に移籍。翌オフにポスティングシステムで念願のメジャー入りを果たす。04、05年はパドレス、06、07年はレンジャーズで活躍した。06年第1回ワールド・ベースボール・クラシックではクローザーとして5試合に登板。決勝では8回途中から登板し、胴上げ投手となった。昨年、信濃グランセローズに入団。今季は監督を務める。
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