「そんな資料、破ってしまえ!」
 渡辺啓太が全日本女子チームの専属アナリストに就任したばかりの頃のことだ。当時、全日本女子チームを率いていた柳本晶一監督に、渡辺はそう言われたことがある。それはプロとは何たるかを痛感させられた出来事だった。
 国際大会を控えてのミーティングで、渡辺が作成した資料が配られた。そこには対戦相手を分析した細かなデータが書き込まれていた。すると、ある選手が1カ所、背番号に誤りがあることに気付いた。
「この選手の背番号、○番でしたよね」
 それを聞いた柳本監督の言葉が、「破ってしまえ」だったのである。

 実は対戦相手の主力選手に故障者が出たため、控えの選手が出てくることを想定した渡辺は、印刷する直前に背番号を書き換えていた。ところが、たった1カ所、修正し忘れていたのだ。

「勝って欲しいという思いをこめて、ミーティングの当日の朝までかかって作り上げた資料でしたから、正直言って柳本さんの言葉はショックでした。でも、おかげで自分がやっている仕事の意味や責任の重さを改めて知ったんです。どんなに頑張っても、たとえひとつのミスだったとしても、日の丸を背負って世界を相手に戦っている選手たちに質の低いものを渡すことは許されない。プロとしての自覚と責任を持ってやらなければいけないということを学びました」
 この時から渡辺はプロとしての意識を強くもつようになった。

 原点となった大学時代の教え

 渡辺がアナリストを目指し始めたのは、大学時代のことだ。選手として専修大学バレーボール部に入部した渡辺だったが、レギュラーへの道は予想以上に険しかった。そこで大学での専攻分野を活用し、データ分析で自らの道を切り拓こうと考えたのだ。ちょうどその時に出会ったのが、当時Vリーグの旭化成スパーキッズ(06年に廃部)の監督を務めていた久保義人(現・JTサンダーズ副部長)だった。同大学バレーボール部の監督が、久保の高校時代の恩師だった縁もあり、合同合宿が行なわれたのだ。

「恩師から渡辺くんのことは聞いていました。『実は、アナリストとして力を発揮させたい子がいるんだ』と。ちょうど日本のバレーボール界でもデータが活用され始めた頃で、チームでも分析を始めていました。少しはノウハウがありましたので、それを渡辺くんに伝えたんです」

 合宿中、久保は惜しげもなく、持っている知識をすべて渡辺に与えた。その時、久保は渡辺にはアナリストとして優れた能力があることを感じていたという。それは彼の人間性にあった。
「アナリストというと、分析することに注目がいきますが、実はそれは単なる手段でしかありません。その分析したものを、どうやってアウトプットするか、実はここが一番アナリストには重要なことなんです。どんなにいい情報があっても、それをうまく伝えられず、相手に理解してもらえないようでは何もなりません。でも、渡辺くんには当時から伝える力がありました。誰に対しても人あたりが良く、会話もテンポよくキャッチボールできるので、話をしていて気持ちが良かった。だから、すごく伝わってくるものがあったんです」

 そんな渡辺の人間的な魅力が、アナリストとしての可能性を広げるに違いないと久保は感じていたのだ。だからだろう、久保は渡辺にこうアドバイスした。
「選手たちは、経験豊富で絶え間ない努力をしてきている。その選手たちに情報を与えるアナリストは、バレーボールのことを誰よりも知っていなくてはいけない。知識の部分では、一番にならなくてはいけないよ」

 この言葉は、今もしっかりと渡辺の胸に刻み込まれている。
「僕にとっての原点ですね。久保さんには、アナリストとしての大事なポリシーを植え付けてもらいました」

 “押し売り”ではないデータ提供

「監督や選手という意思決定者に対して、タイミングよく、そしてわかりやすく、目標達成のために有益な情報を提供すること」
 アナリストの役割について、渡辺はこう語る。その務めをまっとうするために欠かすことができないのは、自主性だという。だからこそ渡辺は、決してデータを押し売りしないように心がけている。

「駆け出しの頃は、自分が持っているデータを少しでも多く伝えたいという思いが強過ぎて、自分から『あれも、これも』と提供していました。でも、例えばいくら『すごく高級なお肉だよ』と言われても、お腹がいっぱいの人は美味しいとは感じませんよね。情報も同じなんです。選手が『このデータが欲しい』と思った瞬間を見逃さず、その時にパッと最高の状態で提供すること。それが重要なんです」

 渡辺がそのことを本当の意味で意識し始めたのは、眞鍋政義監督が就任してからだ。
「眞鍋さんがよく言うのは、一方通行は絶対にダメ、ということ。だから選手とのコミュニケーションをとても大事にするんです。情報も同じ。一方的にバーッと浴びせても、選手は何も吸収しないし、それでは意味がない。大事なのは、選手がコートの中に立った時に与えられた情報をうまく活用できるかどうか。あれだけの大観衆の前で、しかも緊迫した精神状態の中では、自分が本当に必要だと思って頭の中に入れたものしか出てきません。だからこそ、日ごろの練習の中で『自分には何が必要なんだろう』と考えることが重要。そこで選手から求められた情報を提供するのが僕の仕事です」

 普段渡辺は、選手自らが課題を認識し、渡辺の元へ来るのを待つスタンスでいる。だが、時には渡辺が導くこともある。
「練習を見ていて『この選手は、こういう部分を強化しようとしているんだな』と感じた場合、その選手と他愛のない話をしている時に『そういえば、この間の試合でこういうプレーをしていた選手がいたよ』と話すんです。そうすると、『その映像観たいです』と言うことがある。この『したいです』というひと言を引き出せるどうかで、吸収力はまったく違うんです」
 これこそ、まさに経験を活かしたアナリストの為せる業である。

 昨年、眞鍋監督率いる火の鳥NIPPONは、木村沙織をキャプテンとし、装い新たにリオデジャネイロ五輪に向けてスタートを切った。昨シーズンの最後に見せたのは「MB1」と呼ばれる新システム。通常、2人のミドルブロッカー(MB)を1人にするというものだ。ワールドグランドチャンピオンズカップでは、12年ぶりのメダル(銅)を獲得した。

「データからも日本のセンター攻撃が弱いことは事実。ならば、得点を多く取れるところを増やそうという単純明快な発想です」
 世界を仰天させた新システムの理由ついて訊かれると、眞鍋監督はこう答えている。そして、こう続けた。
「今後、『MB1』を続けるかどうかはわかりません。(ミドルブロッカーを)2人に戻すかもしれないし、もしかしたらゼロということもあるかもしれない。とにかく、これからいろいろと分析して、検証していきたい」
 この言葉の裏には、渡辺への信頼があることは言を俟たない。選手のみならず、アナリスト渡辺啓太もまた、世界の頂点を目指す火の鳥NIPPONには、もはや欠かすことはできないのである。

(おわり)

渡辺啓太(わたなべ・けいた)
1983年、東京都生まれ。中学からバレーボールを始め、専修大学ではアナリストとしてチームをサポートした。3年時の2004年から全日本女子バレーボールチームのアナリストを務める。卒業後の06年、専属アナリストに就任し、現在に至る。五輪は北京、ロンドンと2大会連続でサポートし、ロンドンでは28年ぶりのメダル(銅)獲得に貢献した。

(文・写真/斎藤寿子)
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