ロンドン五輪競泳女子で2つのメダルを獲得した寺川綾が、師事する平井伯昌(日本代表ヘッドコーチ)から不意に声をかけられたのは、100メートル背泳ぎ決勝前のウォーミングアップが終了した後だ。寺川は腹ごしらえにおにぎりをたべていた。「オマエ、そのおにぎりの味がちゃんと分かるか?」
 寺川は最初、平井の質問の意味をはかりかねていた。いったい、何を訊きたいのだろう……。とはいえ目が合った以上、言葉を返さないわけにはいかない。「はい。梅の味です」。「そうか、じゃあ大丈夫だ」。平井は小さくうなずくと、ニコッと笑った。寺川が悲願のメダルを胸に飾ったのは、その直後のことだ。

 なぜ平井は、おにぎりの味を訊ねたのか。寺川がその理由を知ったのはロンドン五輪が終わってからである。「初めて出場したアテネ五輪での(200メートル)決勝を恥ずかしいことに私は何も覚えていないんです。レース前に泣いていたらしいのですが、そのことさえ覚えていない。決勝に残ることが目標だったので、準決勝が終わってから次はどうすればいいのか、分からなくなってしまった。不安で不安で、夜も眠れないような状態でした」

 その様子を遠くから心配そうに見つめていたのが当時、代表コーチの任にあった平井だった。本番前、血の気のない顔でおにぎりを頬張る寺川をいたわるように平井は訊ねた。「その、おにぎりの味がわかるか」「……」。19歳の女子大生は下を向いたまま、何も答えられなかった。

 再び寺川。「平井先生から声をかけられたことも覚えていないんです。それどころか、決勝前におにぎりを食べたことすらも。つまり決勝前からの時間帯は、私にとって今も空白のままなんです。後で分かったのですが、8年後、平井先生が私に同じ質問をぶつけたのは、私の精神状態を確認するためだったんです」

 アテネの記憶がすっぽりと抜け落ちているのに対し、ロンドンの記憶は今も鮮明だ。それは8年という時間のせいだけではない。長い競技生活に別れを告げた寺川はビーナスのような笑みをたたえて言った。「控室から招集所に向かう時、平井先生と歩きながら、一緒にこれまでやってきたことをすべて確認しました。もちろん、そのときの風景も全部覚えています」。五輪には魔物が棲んでいるという。棲み処は心の中か……。

<この原稿は14年2月12日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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