いろいろと考えさせられることの多いソチ五輪である。
 たとえば、願望と予想の混同。日本人の場合、「そうあってほしい」という思いが、相手を分析する目を鈍らせる傾向が強いのかもしれない、と自戒の念とともに思う。
 戦って負けるのは仕方がないが、メダル有力、あるいは確実といわれた選手が、いざ戦ってみて愕然という図式は、あまりにも苦いし痛い。あらかじめ力の差があることを認識していれば、もう少しやれることもあっただろうに。選手も、スタッフも、そしてメディアも。
 メダルを期待されながら不本意な結果に終わり、「申し訳ない。旅費を全部払いたい」と頭を下げたスピードスケートの長島圭一郎にも複雑な思いにさせられた。

 まるで犯罪者か、その一族による懺悔の言葉ではないか。スポーツにおける敗北は、仮に自身の「恥」になることはあったとしても、「罪」や「悪」では断じてないはずなのだが。一番悔しいはずの選手が頭を下げ、かつ、それが違和感なく受け入れられたこの国の空気がいささか寂しい。

 大きな目標を口にしながら結果を残せなかった場合、批判を浴びることは世界中どこでもある。ただ、そこで選手が謝罪をする、あるいは周囲が謝罪を要求するというのはあまり聞く話ではない。個人スポーツとなればなおさらである。

「結果を残せなかった選手を戦犯、戦争犯罪人呼ばわりするのって、たぶん日本人だけですよね」――西武、オリックスなどで活躍した清原和博さんの言葉が思い起こされた。6年後に4度目の五輪開催を控えながら、日本人のスポーツに対する意識は、まだまだスポーツを国威発揚の道具としか見ることのできない国のそれに近いということなのか。

 さて、サッカーの世界に目を向けると、日本代表にとっての明るい兆しが見えてきた。昨年後半、サウサンプトンでほとんど出場機会に恵まれなかった吉田のレギュラー復帰である。

 選手にとって、いわゆる“試合勘”が大切なことはいうまでもないが、自分で攻撃をイメージすることのできる側よりも、相手のイメージを破壊するのが仕事となる側の方が、試合に出続けることの重要性はより大きなものとなる。試合に出なければ、もっとも大切な感覚を磨き維持する機会が失われてしまうからだ。

 日本守備陣の要となる選手が試合勘を失うことは、わたしにとって最大の心配事でもあった。吉田がこのままレギュラーであり続けること。それは本田がミランで活躍する以上に大きな意味を持っている。願望ではなく、予想である。

<この原稿は14年2月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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