2013年末、アメリカ国内のさまざまな媒体がボクシングの年間賞を制定する際、決まって名前が挙げられた日本人ボクサーがいる。八王子中屋ジムの荒川仁人である。
 昨年7月27日に行なわれた荒川対オマー・フィゲロア戦(WBC 世界ライト級暫定王座決定戦)は稀に見る大激闘(フィゲロアが判定勝ち)となり、2013年の年間最高試合候補のひとつとして特筆され続けることになった。
(写真:リナレス戦は荒川にとってキャリアの分岐点と言える大一番である)
「自分自身では特別なことをしたとは思いませんでした。選手として当たり前のことをしただけだと思っていたので、それに対しての反響には驚きました」
 2人合わせて合計2000発以上。世界ライト級タイトルマッチ史上最多の手数を繰り出した壮絶な一戦の主役となりながら、荒川本人は殊勝にそう振り返っている。しかし、もともとボクシングをエンターテイメントと考えるアメリカでは、勝敗だけでなく、試合の面白さも求められるもの。息もつかせぬ打ち合いが続いたフィゲロア対荒川戦は、文字通り最高級のエンターテイメントだった。

 死闘の中で2度のダウンを喫しながら、相手のパワーを恐れずに戦い抜いた荒川の勇気と闘志は確かに賞讃されてしかるべきだったろう。
 結局、敗れはしたものの、“ニヒト・アラカワ”の知名度は米国内でも急上昇。海外での実績に乏しい世界王者たちを差し置いて、荒川はアメリカで最も名前を知られている日本人ボクサーのひとりになったと言ってよい。

 こうして初の世界タイトル挑戦で名をあげた荒川に、“ご褒美”と呼んでもいい一戦が再び用意された。
 3月8日、ラスベガスで元2階級制覇王者ホルヘ・リナレスを相手にWBC世界ライト級挑戦者決定戦を行なう。この試合はサウル・アルバレス対アルフレッド・アングロという注目カードの前座に組み込まれ、会場はお馴染みのMGMグランドガーデン。2011年10月の西岡利晃対ラファエル・マルケス戦で使用されたのはMGMとはいっても敷地内の小ホールだったが、今回は正真正銘のメインアリーナ開催である。
(写真:メイウェザー、パッキャオの”本拠地”として知られるMGMのリングに荒川も立つ)

 しかも、この試合はPPV放送開始前にメガケーブル局Showtimeの本放送で生中継される予定という。Showtimeはちょうど無料ウィークの真っ最中で、言い換えれば荒川対リナレス戦はShowtimeが新たな加入者を募るための“ショウケース”に抜擢されたということ。その背後には、「荒川がまた良い試合をやってくれるはず」という期待感があるのだろう。

 2012年11月にはメキシコで不運な負傷判定負けも喫した荒川だが、その後も海外路線を諦めず、運命を左右する一戦に豪華な舞台で挑む権利を勝ち取った。一方のリナレスも日本のリングで育った選手だけに、この試合に対する注目度は日本でも高いことだろう。

 勝った方は、日米両方のボクシングファンから認められ、胸を張ってタイトルマッチに駒を進めることができる。実力者同士の本場でのサバイバル戦はさまざまな意味で素晴らしいカードであり、実現に尽力した関係者、対戦を受け入れた両選手に拍手を送りたいくらいである。
(写真:Showtimeで解説者を務める元2階級制覇王者ポーリー・マリナッジ(中央)と荒川)

 もっとも、この試合は荒川にとっては大きなチャンスであると同時に、絶対に負けられない背水の陣でもある。好内容のファイトを続けているとはいえ、結果的には世界ランカー相手には2連敗。いかに勇気と気迫を示そうと、ここでも敗れて3連敗となれば“善戦マン”の呼称も定着してしまう。

「リナレスはスピーディでテクニカル。ただ、打たれ脆いと感じています。プランとしては、スピードある相手に対して動きを止めないことです」
 クレバーな荒川が分析する通り、ベネズエラ出身の元王者は長所と短所が極端に分かれた選手である。そのボクシングセンスは一級品で、台頭期は米リングでも“スーパースター候補”と呼ばれたほど。しかし、これまでの3敗はすべて痛烈なストップ負けというアゴの弱さが出世を妨げてきた。

 荒川との試合は、おそらく後半勝負が濃厚。スキルに秀でたリナレスがリズミカルに動き、着実にポイントを稼いでいく姿を想像することも難しくはない。タフネスに勝る荒川側としては、過去2戦では打ち込めなかった決定打をどこかでリナレスに叩き込めるかどうかが焦点になるだろう。

「変えるべきところはすべてです。現状より常に強くなることが重要だと思います。現役でいる間は、何かを達成することなく、常にすべてにおいて向上を目指さなければならない」
“良い試合をするだけでなく、勝つために変えなければいけない点は?”と荒川に尋ねると、そんな答えが返ってきた。

 確かに、その通りなのだろう。努力を重ね、ここまでたどり着いた荒川が、いわゆる“真の世界レベル”で実際に勝利を手にするには、前戦までよりも、もう一段レベルを上げる必要がある。

 敗れれば“最初で最後”になりかねないラスベガスのリングで、32歳にして、荒川はまたひとつ成長した姿を見せられるかどうか。特に「同じペースで攻めるのではなく、ヤマをつくるときにはつくること」という以前から挙げていた課題を克服すれば、リナレス相手にも十分に勝機はあるはずだ。

 強豪と戦い続け、自らの力で道を切り開いてきた。その過程で、本場のファンを喜ばせる試合ができることも証明してきた。条件が良いとは言えない海外リングでの試合を恐れない八王子中屋ジムの方針には共感できるし、「強い相手と戦えることは嬉しい」と言う荒川にも素直に好感を持たずにはいられない。
(写真:中屋廣隆会長(左)、同僚の東洋太平洋スーパーウェルター級王者チャーリー太田(中央)、中屋一生プロモーター(右)と揃い、サポート体制も万全だ)

 その上昇のプロセスはボクシングファンが抱く理想型に近かっただけに、これからも同じような道のりを歩んでくれる選手が現れてほしいと願う。そして、その軌跡に、もっと大きな価値を付与するために、さらには後に続く選手にとっての“成功例”になるためにも、ここで荒川は白星を手にしておく必要がある。

 勝てば再びのタイトル挑戦が有力となり、負ければグロリアス・ロードは恐らく閉ざされる。正真正銘のクロスロード・ファイトは、荒川のキャリアを左右する文字通りの大一番である。

 勝負の舞台で、“童顔のスナイパー”はより向上した姿を見せられるかどうか。日本、アメリカ両方のファン、関係者の視線が注がれる挑戦者決定戦は、もう2週間後に迫っている。

杉浦大介(すぎうら だいすけ)プロフィール
東京都出身。高校球児からアマボクサーを経て、フリーランスのスポーツライターに転身。現在はニューヨーク在住で、MLB、NBA、NFL、ボクシングを中心に精力的に取材活動を行う。『スラッガー』『ダンクシュート』『アメリカンフットボールマガジン』『ボクシングマガジン』『日本経済新聞』など多数の媒体に記事、コラムを寄稿している。

※杉浦大介オフィシャルサイト>>スポーツ見聞録 in NY
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