2011年3月11日、異国の地で武者修行をしていた桃田賢斗に衝撃の報が飛び込んできた。桃田の住む福島県をはじめとする東日本地域が未曽有の大震災に見舞われたのである。遠征先のインドネシアでニュースを知り、愕然とした。チームメイトとも連絡がとれず、「みんなが大丈夫なのか、とても心配でした。正直、何も手につかなかった」と桃田は当時を振り返る。帰国の途についても、福島へは戻れなかった。彼の通う富岡高がある福島県富岡町は福島第1原発事故による警戒区域に指定されたからだ。桃田は、香川県へ帰ることを余儀なくされたのだった。

 

 実家に戻った後も、すぐには高校での活動は再開されなかった。
「町が大変なことになっているのに自分が何もできないことに対し、歯がゆい思いもありました。ただ、自分ができることはバドミントンを頑張るしかなかった」
 桃田は高校側の協力もあり、複数の実業団チームの練習に参加する。トナミ運輸、NTT東日本など強豪チームでの練習を経験し、大いに刺激を受けた。

 そして震災から約2カ月後、猪苗代高がサテライト協力校として、空き教室を提供してくれることになった。バドミントン部の部員たちは猪苗代町での寮生活をスタートさせ、桃田は仲間たちとの再会を喜んだ。
「本当にチームがなくなってしまうのではないかと思っていたので、とても嬉しかった。またメンバーと一緒に生活でき、感謝しています」

 とはいえ、練習環境は大きく変わった。富岡高は専用の体育館を使用していたが、猪苗代では猪苗代町総合体育館(カメリーナ)を借りて、練習する日々を送った。当然、練習時間は短くなり、イベントなどでカメリーナに空きがなければ、町の小さな体育館や他の学校の体育館など練習場所は転々とした。

 様々な経験をし、逞しさを増した桃田。7月にアジアユースU-19選手権大会の男子シングルスと団体戦で銅メダルを獲得した。翌月には青森県での全国高校総合体育大会(インターハイ)を迎えた。震災後初の全国大会で、桃田は富岡高の団体戦3位に貢献すると、ダブルスで優勝、シングルスでは準優勝を収めた。11月には、台湾で行われた19歳以下の世界大会・世界ジュニア選手権のシングルスで銅メダルを獲得。翌月の全日本総合選手権ではベスト8に入り、2012年度からはナショナルチーム入りを果たした。

 どの大会でも自身過去最高の成績を収めた桃田だったが、満足はしていない。
「特にインターハイで負けたことは悔しかったです。もちろん世界ジュニアで銅メダルを獲得した手応えもありましたが、国内で勝ちたかった」
 敗戦の悔しさは、更なる成長への肥やしとなる。翌年、最終学年となった桃田の快進撃が始まる。

 悔しさを糧にノルマを達成

 12年7月、アジアユースU-19選手権の男子シングルスと団体戦で2冠を手にすると、翌月にインターハイのシングルスで初優勝。10月に開幕した千葉での世界ジュニア選手権のシングルスで日本勢初となるジュニア世界一に輝いた。桃田は、1年前は惜しくも届かなったタイトルをいくつも掴み取ったのだ。

 特に世界ジュニアでは精神的な強さが見られた。ホームでの開催、前回大会で銅メダルを獲得した桃田にかかる重圧は決して小さいものではなかったはずだ。それでも本人は落ち着いていたという。当時を振り返って、こう語る。
「気負うというよりは一発勝負でどっちが勝つか。そんなにプレッシャーも感じていなかったですね」

 桃田はシングルスを順調に勝ち進み、決勝へとコマを進めた。そして迎えた団体戦で日本を破り、金メダルを獲得した中国のシュエ・ソンとの決勝戦。桃田は第1ゲームを先取したものの、続くゲームはシュエ・ソンに取り返される。さらにファイナルゲームで17−19とビハインドとなり、“土俵際”へと追い込まれた。だが、桃田は冷静だった。ホームの声援にも押され、巻き返しにかかる。

 得意のネットプレーを軸に攻撃を組み立て、1点、そして1点と取り返す。19-19の同点となり、先にミスをしたのは中国のエースだった。シュエ・ソンの打球がアウトを宣告されると、桃田のチャンピオンシップポイント。あと1点で優勝が決まる。桃田は配球で、シュエ・ソンを前後に振る。手前へ落としたシャトルに対し、相手の返球が甘くなった瞬間を桃田は見逃さなかった。一気にネット際へと詰め、シャトルを相手コートに叩き込んだ。劣勢からの4連続ポイントで21-19。桃田はコート上に仰向けで倒れ、喜びを爆発させた。日本男子シングルスの第一人者である田児賢一すら為しえなかった快挙を達成した。桃田は持ち前の巧さだけでなく、タフなゲームをモノにできる逞しさが身に付いていた。

 実は桃田と、富岡高の大堀均監督は在学中に2つのノルマを立てていた。
「本気で世界を考えられる選手はなかなかいない。桃田とは言葉だけでなく、具体的に目標を設定していました。オリンピックでメダルを獲るため、高校在学中に世界ジュニアを獲り、世界ランキング50位以内になると」

 桃田の高校入学直後(10年4月15日時点)のBWF世界ランキングは606位。その道のりは決して容易いものではない。彼自身も「“ちょっと厳しいのでは”と思っていました」と本音を明かす。
 だが、一方の大堀には自信があった。「桃田は目標を達成するために自分が何をしないといけないのかを、しっかり考えながら練習していました」。大堀によれば、桃田はコーチの言うことに対し、質問をしたり、極端に言えば、反論することもあったという。「これは彼自身の向上心の表れであって、なおかつコーチの話をよく聞いている証拠なんですよね。上辺だけの返事で、ちゃんと頭に入ってないということもない。彼はよく人の目を見て話を聞き、自分の考えをはっきり言える。その点でも普通の選手とはまるで違いましたね」
 606位になってから約3年の月日が経った時、桃田の世界ランキングは50位となっていた。

 小中高と全国制覇を達成し、ついにはジュニアの世界一をも掴んだ桃田。中学、高校と過ごした福島県で得たものは大きい。
「親元を離れ、福島で過ごした6年間はすごく濃いものでした。最初は無我夢中でバドミントンに取り組んできましたが、やはり震災後の恩返しとか、みんなに支えられてバドミントンができていると、考えられるようになった。“自分だけのためではない”という感情も入り、プレーにも責任感が出てきました。それで力をつけていけたんじゃないかなと思います」
 桃田はバドミントン選手として、そして人間的にも成長した福島を後にし、次のステージへと向かう。富岡高校卒業後、NTT東日本へと入社する。実業団の名門チームを選んだ理由には、1人の憧れの存在があった――。

(第4回につづく)

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桃田賢斗(ももた・けんと)プロフィール>
1994年9月1日、香川県生まれ。7歳でバドミントンを始め、小学6年時に全国小学生選手権大会のシングルスで優勝した。中学からは地元を離れ、福島の富岡第一中に入学。3年時には全国中学校大会のシングルスを制した。富岡高進学後は、2年時に全国高校総合体育大会(インターハイ)のダブルスで優勝、シングルスで準優勝を果たした。3年時にはインターハイのシングルスを制すと、アジアユース選手権、世界ジュニア選手権などの国際大会でも優勝を収めた。高校卒業後はNTT東日本に入社し、1年目から活躍。全日本社会人選手権で頂点に立つと、全日本総合選手権大会でベスト4に入った。昨年は男子国別対抗戦のトマス杯に出場し、日本の初優勝に貢献。全日本総合ではシングルスで準優勝した。BWFスーパーシリーズファイナルにも出場。BWF世界ランキング16位(3月12日時点)に入る。身長174センチ。左利き。

(文・写真/杉浦泰介)




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