「なるほど……」。15年間、スキーブーツのチューンナップを手掛けてきた広瀬勇人の言葉を聞いて、はたとヒザを打った。スキー競技において、“チューンナップ”と言えば、おそらく大半の人がスキー板のことを想像するだろう。しかし、何か忘れていはしまいか。スキーヤーの身体とスキー板をつなげているもの――そう、スキーブーツである。このブーツにおけるチューンナップを重視する日本人スキーヤーはそう多くはいない。だが、広瀬は言う。「スキーヤーの能力とスキー板の性能を引き出すのがスキーブーツ」だと。たかがブーツではないのだ。
 きちんと自分に合ったスキーブーツを履くこと。それは“安全性”と“技術向上”への大きな一歩となる。スキーという競技は、いかにスキー板をうまく操作することができるかが重要であることは言を俟たない。そのためにはスキー板に身体を乗せた時のポジショニングが不可欠だ。だが、フィットしていないスキーブーツではバランスを崩しやすいことは容易に想像できる。そうすれば、ケガにもつながりやすい。0.1秒を争うトップ選手なら、なおさらである。ほんのわずかなズレが自分の滑りに狂いを生じさせる。

 だが、トップ選手でもブーツチューンナップへの意識が高い日本人選手はそう多くはないという。欧米ではスキー板同様に常識となっているブーツのチューンナップだが、日本では未だ浸透していないのが現状だ。その理由を広瀬はこう語る。
「人間のすごいところなのですが、多少ブーツのバランスが合わなくても、それに対応する能力が備わっているんです。合わないブーツでも順応した動きでカバーすることができるのが人間。トップレベルになればなるほど、その傾向が強い。だから“滑れちゃう”んですよ」

 しかし、それは自分の身体に“無理”をさせている状態でもある。ケガにつながる可能性はもちろん、自らの能力の妨げにもなっている。そのことに、早く気付いてほしいと広瀬は言う。
「バランスが悪いのに、いい方向に持っていこうとするということは、そこで自分の身体に無理を強いているということですよね。つまり、余分な負荷がかかっているんです。それでは、せっかくの能力が100%発揮することはできないし、ケガにもつながる。せっかくの能力を“無理”に使うのはあまりにももったいない。だからこそ、自分にフィットしているバランスの合ったブーツを履いて欲しいんです」

 新エース誕生の一助に

 広瀬にとって、スキーブーツのチューンナップがいかに大事かを改めて実感し、そしてやりがいを感じるのは、やはり選手のパフォーマンスが上がった時である。その第1号はアルペンスキーヤーの皆川賢太郎だった。

 皆川が世界のトップ選手たちの仲間入りを果たしたのは、2000年1月のことだ。オーストリアで行なわれたW杯第6戦、当時22歳の大学生だった皆川は、回転で60番スタートながら1回目に17位につけて初めて2回目に残ると、6位入賞という好成績を挙げた。さらに1カ月後の第9戦でも6位入賞し、マグレでないことをアピールした皆川。新エースの誕生に、低迷が続いていた日本アルペン界が沸いたことは言うまでもない。

 実はそのシーズン前、皆川は広瀬の元を訪れていた。スキーブーツのチューンナップを依頼したのだ。
「皆川選手はふくらはぎが非常に太いので、どうしてもヒザが前に入り過ぎてしまっていたんです。そのために前傾角度が深くなってしまい、腰を高く保ちにくくなっていました。そこで、きちんと腰から力を伝えられるようなポジショニングにするために、前傾角度を少し起こすように調整したんです」
 皆川本来の力を発揮することができるよう、広瀬はインソールづくりから、シェル加工、そして左右のバランスに至るまで細かく、正確な調整を行なった。皆川の躍進は、その後すぐのことだった。

「当時はブーツチューンナップを事業化して1年目だったので、皆川選手の活躍は本当に嬉しかったですね。当時はカービングスキーが出たばかりの時で、皆川選手にそれがはまったことも大きな要因だったと思います。ただ、そこに自分のチューンナップ技術が施されていたということはまぎれもない事実。僕にとっては、印象深い出来事でしたね」
 今以上にブーツチューナップへの認識が薄い時代だった。だからこそ皆川の躍進は、ブーツチューナーとしてデビューしたての広瀬にとって、ひとつの大きなステップとなったに違いない。

 実力勝負のための準備

(写真:スキーヤーの能力とスキー板の性能を引き出すスキーブーツ)
 こんな例もある。国体出場を目指すものの、毎年同じライバル選手に負けを喫し、なかなか県予選を突破できずにいた女子選手がいた。ライバル選手との差はおよそ3秒差。その差はなかなか縮まらなかった。ある年、広瀬がその女子選手のブーツをチューンナップした。すると、彼女は初めてライバル選手を上回るタイムをたたき出し、悲願の国体初出場を果たしたのだ。果たして、3秒差を縮めた要因とは−―。

「スキー板自体はエッジがかかりやすく、ターンしやすい性能だったのですが、ブーツとのバランスが悪かったために、その性能が使えていなかったんです。そこで、きちんとエッジがかかるような力の伝わる方向と角度でポジショニングがとれるようにブーツを調整しました。もちろん彼女の努力もあったと思いますが、スキー板とのバランスが良くなったことも、タイムに表れたのだと思います」

 未だに国内ではトップ選手の中にもブーツチューンナップに否定的な意見は少なくないという。そこにはプライドが見え隠れする。
「自分が用具に合わせるのか、それとも用具を自分に合わせるのか、の違いだと思うんです。ほんの少しのズレが、パフォーマンスには大きく響くのですが、選手によっては、その少しのズレを自分の許容範囲だと思っているんでしょうね。つまり、技術でカバーできるものだと。その考えが悪いと言いたいわけではないんです。ただ、ベストに近いセッティングをした方が、さらに能力を発揮できるんじゃないかと思うんです」

 選手にとって、最もやっかいなのがケガであろう。パフォーマンスを出せないばかりか、練習もままならないのでは土俵に上がることさえもできない。スキーブーツのチューンナップは、広瀬の言葉を借りれば、“準備”の一端である。ウォーミングアップや、スキー板のワックスがけなどと同じく、自らが持つ能力を最大限に引き出すため、そしてケガをしないための不可欠な要素だ。

「せっかく努力したのに、用具のアンバランスのために、成果が出せないなんて、あまりにももったいない。さらにケガをしてしまうのは、もっと残念なことです。ブーツのチューンナップは、その選手が本来持っている一番いいバランスを整えてあげること。それができれば、準備万端でスタートすることができる。そこからが本当の実力での勝負です」

 実は現在開催中のソチパラリンピックにも、広瀬が手掛けたスキーブーツを履く選手がいる。アルペンスキー・スタンディング(立位)の小池岳太だ。小池は大学時代に交通事故に遭い、左腕が麻痺で動かない。そのため、ストックは右腕1本だ。その小池にとって、スキー板にバランスよくポジショニングを取ることは、容易なことではない。だからこそ、スキーブーツのチューンナップは不可欠なのだ。果たして、小池の滑りを支えるチューンナップとは――。

(後編につづく)

広瀬勇人(ひろせ・はやと)
1970年7月13日、北海道生まれ。小学4年からスキーを始め、高校、大学ではスキー部に所属。大学卒業後、プロスキーヤー、コーチとして活動する傍ら、スキーブーツのチューンナップを手掛けてきた。代表を務めるオーダーインソール工房「ハッチェリー」では、ウォーキングから野球、サッカー、ゴルフ、バドミントンなど、一般からアスリートまで幅広いニーズに応えている。

(文・写真/斎藤寿子)
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