エリアス・ザクーと待ち合わせをしたホテルの駐車場には「FIFA」(国際サッカー連盟)のマークが描かれたヒュンダイのミニバンが停められていた。このホテルから歩いて5分ほどの海岸で、ビーチサッカーのワールドカップが行われているからだろう。約束の時間から40分ほど遅れて到着したザクーは詫びることもなく、ロビーの椅子に座った。「今日は歯医者の予定をキャンセルしてここに来たのだ。明日、眼の手術をする。その前に歯を治そうと思ったのだ」。不機嫌な顔だった。
(写真:取材に応じるザクー。言葉の節々に奥深い“闇”を感じ取れた。撮影・西山幸之)
 ザクーとは何者なのか

「では始めましょう。あなたについては全く情報がない。生まれた場所と生年月日を教えて欲しい」

 ぼくは早速、質問を始めた。昨日の電話では「取材時間は十分だ」と釘を刺されていたからだ。
「生まれはレバノンだ。年齢? 年寄りだよ。ブラジルに来たのは1952年のことだ」
「家族で移民して来た?」

「いや、一人でだ。叔父がブラジルに住んでいた。レバノンの大学を卒業してからこっちに来たんだ。着いた時、ブラジルの景気は良かった。当時の大統領の(ジュセリーノ・)クビチェッキがブラジリアを建設していた。しかし、その後はインフレがひどくなった。だから、この国に住むには国外とビジネスをしなければならないと思ったんだ。私たちレバノン人は、フェニキア人の精神を持っている。レバノン人は複数の言語を話すことが出来る。そして欧州など世界各国に散らばって商売をしている」

 フェニキアとは古代、地中海東岸地域に成立した都市国家の総称である。フェニキア人は航海術に優れ、大西洋にまで進出した。ちなみに、フェニキア文字はアルファベットの原型である。
 ブラジルには多くのレバノン人移民がいる。日本で最も知られているレバノン系ブラジル人は、日産のカルロス・ゴーンだろう。ザクーはレバノン人のネットワークを使ってサッカーのビジネスを始めたという。
「最初はアフリカ、アラブ諸国にブラジルのクラブチームを連れて行った。当時のアフリカは植民地だったせいもあるだろう、今と比べてもずっと秩序があった。仕事はそんなに難しくなかったよ」

「最初はサントスFC?」
「いや、ペレやサントスと仕事をするのはずっと後のことだ」

 74年のFIFA会長選挙で、ザクーはジョアン・アベランジェの選挙参謀となった。そのザクーがアフリカの票をとりまとめたことが、アベランジェの当選に繋がった。

「サントスとペレをアフリカに連れて行ったことで、各国の連盟と関係が出来た。ペレには影響力があった。彼らはこんな風に言ってくれたよ。“我々には二つの愛する国がある。一つは自分の国、そしてもう一つはブラジルだ”と。アフリカの人々はサッカーが好きで、特にブラジルのサッカーが大好きなんだ」

 FIFA会長選挙をアベランジェと争ったのは、現職のイギリス人、スタンリー・ラウスだった。劣勢と見られたアベランジェが勝利した後、欧州のメディアはアベランジェ陣営が金でアフリカの票を買ったと書いた。ぼくがそのことに触れると、ザクーは首を大きく振った。「彼らが私たちを支持してくれたのは友情だよ。金をたくさんばらまいたのは、スタンリー・ラウスの方さ」

 会長選についてもう少し踏み込みたいとも思ったが、ぼくは他にも聞きたいことがあった。ドーハの悲劇についてである。

 なぜザクーはドーハにいたのか

「あなたは93年にドーハで94年アメリカW杯アジア最終予選があった時、会場?にいた。どうしてドーハに?」

「しょっちゅう、あの辺りに行くよ。ぼくはたくさん馬を持っている。馬の取り引きがあるんだ。あのときもたまたまいたんだ」

「ある関係者から、こんな話を聞きました。“ザクーは審判に対する影響力があった。彼にに頼んでおけば、日本はW杯出場権を手にすることができた”と」

 非常に婉曲的な問いだった。ザクーは下を向いた。
「あの大会で日本は負けたんだっけな?」
「最終戦のイラク戦で日本は終了間際に失点し、引き分けました。だから、アメリカW杯の出場権を手にすることができなかった。あなたの力を借りれば引き分けることはなかった。それは……」

 ぼくの言葉をザクーは遮った。
「サッカーは複雑なんだよ。日本の監督が駄目だったんじゃないか、あんな大事な試合でどうして引き分けたのだ」

「あなたは日本のサッカー協会の関係者に会っていますよね」
 ザクーは鋭い目でぼくを睨んだ。これ以上聞くな、というザクーの強い意志を感じた。

「日本の監督が悪かったんだ。だから引き分けた。それだけだ。もう時間がない。そろそろ引きあげるぞ」
 ザクーは立ちあがった。取材終了だった――。

 サッカーに審判の「操作」はつきものだ。故ソクラテスは、ぼくの取材でブラジルでもイタリアのセリエAでも、審判の買収があったことを認めている。
「ブラジルではせいぜい審判とキーパーを買収する程度だ。しかし、イタリアは審判と両チームの選手全員を買収した」

 ブラジルのジャーナリスト、ビタウ・バッタイーニは94年のアメリカW杯のブラジル対スウェーデン戦で買収が行われたことをつかみ、ブラジルの新聞で大々的に書いた。
 02年日韓W杯で韓国代表が4位となったのは、彼らの力だけによるものではないことは明白だろう。

 歴史に「もし」はないとよく言う。ただ、93年のドーハの地で、ザクーが審判を操作し、日本代表がアメリカW杯に出場していたとすれば――。三浦知良はここまで現役にこだわっただろうか。W杯を逃したドーハ組を踏み台にして世界に駆け上がっていった中田英寿は……すべて想像の中である。

(この項おわり)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。最新刊は『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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