二宮: 青島さんは慶應大学、東芝と、アマチュア野球のエリートコースを歩んできました。特に当時の社会人野球はレベルが高かったですよね。その中でも東芝は、全国屈指の強豪でした。
青島: チームの目標が高かったですからね。僕が入社して1年目は、都市対抗で準優勝だったんです。もう、試合後のロッカーはお通夜状態(笑)。優勝するのが当たり前で、それ以外は話にならなかったんです。

二宮: 当時、東芝のライバルというと?
青島: 関西の日本生命や松下電器も強豪でしたが、それよりもまずは神奈川県が激戦区でした。日本石油、日本鋼管、三菱自動車川崎、三菱重工横浜、日産自動車……と強豪がズラリと揃っていましたから、都市対抗の本戦に出場すること自体が大変でした。でも、そこを勝ち抜けば、予選敗退のチームにも優秀な選手がゴロゴロいましたから、本戦ではいい補強ができました。だから、神奈川のチームは本当に強かったんです。

二宮: 日本代表として国際大会にも出場しました。
青島: 3年目の1983年は、ロサンゼルス五輪のアジア予選を戦いました。でも、日本は台湾との代表決定戦に負けて、出場を逃したんです。

二宮: ところが、当時は東西冷戦真っただ中。ソ連がオリンピックをボイコットしたことに伴い、キューバも出場権を放棄して、代わりに日本の出場が急きょ決まったんですよね。
青島: そうそう。でも、僕たち予選敗退組は選ばれず、広沢克己ら大学生を交えた新メンバーで構成されました。その結果が金メダルですからね。

二宮: もし、そのメンバーに入っていたらと考えたことは?
青島: ありますよ。おそらく鳴り物入りでプロに入っていたでしょうね(笑)。それは冗談として、完全燃焼していたかもしれないなと。「もう思い残すことはない」と、スパッと野球を辞めて、サラリーマンの道に行っていたかもしれません。

 引退決意から1年後のプロ入り

二宮: 東芝で4年やった後に、ヤクルトにドラフト外で入団しました。どういう経緯で急にプロへ?
青島: 実は3年目が終わった時には野球を辞めようと思っていたんです。その年、都市対抗で優勝して、それを花道に現役を引退しようと。そしたら会社から「もう1年やってもらわないと困る」と言われたんです。

二宮: 青島さんが抜けて戦力が落ちるのは困ると。
青島: そこには、社会人野球ならではの事情があったんです。当時都市対抗で優勝すると、翌年は推薦出場することができた。ただ、その代わりに他のチームから補強することができなかった。だから、会社としては現有戦力でやるしかなかったんです。それで「続けてくれ」と。

二宮: なるほど。それでもう1年やって、引退は考えなかった?
青島: 今度は逆にもう少し野球をやりたくなっちゃったんです(笑)。ここまでやってきたらプロ野球に行きたい……と。それで会社に相談したら、「君のことを待っている部署がいくつもあるんだから、来年からは社業で頑張ってくれ」と言われてしまいました。だったら男らしく会社を辞めて、自分でプロ入りの道を模索しようと思ったんです。退路を断った方が、潔いかなというのもあって。そんなことを言っていたら、会社が「いやいや、早まるんじゃない。そこまで言うなら、プロに行けるかどうかやってみろ。それでもし、話がまとまらなかったら、今度こそ野球は諦めて、会社で仕事をしなさい」と猶予をくれたんです。

二宮: 4年連続で都市対抗に出場して、優勝もしているわけだから、興味をもった球団も少なくなかったのでは?
青島: いえいえ。もう社会人4年目で26歳でしたから、プロのスカウトからは「プロよりも会社に残った方が賢明」というアドバイスをされていました。「契約金は要らないから」と言っても、「天下の東芝さんの選手を契約金なしで獲るわけにはいきませんよ」と言って明るい話はない。どうなるのか、どうしたらいいのか、と悩んでいるときに、ヤクルトさんが「ドラフト外でもいいというのなら」ということで獲ってくれました。今思えば、既定路線をぶち壊したかったんでしょうね(笑)。

 史上20人目の初打席初本塁打

二宮: 同期の選手には誰がいますか?
青島: ドラフト1位が広沢、2位が秦真司、3位は柳田浩一、6位には乱橋幸仁がいましたね。

二宮: 初出場は1年目の1985年5月11日、神宮球場での阪神戦でした。代打で出場して、いきなりホームラン。鮮烈なデビューでしたね。
青島: 史上20人目の初打席初ホームランを工藤一彦さんから打ちました。

二宮: 打ったのはどんな球だったか、覚えていますか?
青島: それが笑えるんです。プロ初打席でしたから、もう周りが見えないくらい入りこんじゃって、ガッチガチになって打席に立ったわけです。頭にあったのは真っすぐ一本。「いち、にの、さん!」で真っすぐに合わせてフルスイングしたら、センターバックスクリーンへのホームランでした。ところが、実際に打ったのは真っすぐではなかったんです。

二宮: で、何だったんですか?
青島: フォークボールだったんです(笑)。そのまま狙っていた真っすぐが来ていたら、どん詰まりですよ。直球を狙っていて、それよりも遅いフォークボールが来てタイミングがバッチリだったんですから……。どれだけ力んでるんだ、って話ですよ(笑)。

二宮: アハハハハ。しかし、プロ初打席でセンターバックスクリーンへのホームランを打ったわけですから、自信になったでしょう?
青島: 自信というよりも、過信に近かったと思いますね。少しいい気になってしまっていたかなと。実は2年目のオープン戦でホークスと対戦した時、試合前に“ドカベン”こと香川伸行が僕のところに寄って来て、「青島さん、初打席初ホームラン、すごかったですね」と言ってくれたんです。「ありがとう」って言ったら、「実は僕、史上14人目の初打席初ホームランなんです」と。「なんだよ、オマエ、ただ自分の自慢をしたかっただけじゃないか」って言ったら、香川がこう言ったんです。「青島さん、知っていますか? 初打席初ホームランを打った人で、その後大成している人ってほとんどいないんですよ」。いやぁ、そのときは2人で大笑いしましたが、僕の場合は見事に当たっていますね。結局、5年で引退。野球をなめていたというわけではないけれど、もっといろいろと考えて野球をやらなければいけなかったなと、今さらながら思いますよ。

二宮: 引退した時、後悔はありましたか?
青島: 引退することには納得していました。最後の2年はケガも多くて、ずっと二軍生活でしたからね。「もう、そろそろじゃないの」って、自分自身に肩を叩かれていましたから。ただ、やり残した感は満載でしたね。それがその後の人生につながったのかなとは思いますけど。

 ライター、そしてキャスターへ

二宮: 引退後は、日本語教師として単身オーストラリアへ。海外に行こうと思った理由は?
青島: そのまま国内でウロウロしていたら、また血が騒いで、野球の傍にすり寄ろうとする自分が出てくるんじゃないかと思ったんです。それを振り払うために、スポーツとは全く縁を切って、違う仕事に就こうと。そう決意して、オーストラリアに行きました。ゆくゆくは、家族で移住しようと考えていたんです。

二宮: 結果的にその時のオーストラリア生活が、今の仕事にも役立っているのでは?
青島: それはありますね。目から鱗みたいなことばかりでしたから、一気に世界観が広がりました。オーストラリアでは、世界のスポーツのほとんどがあると言っても過言ではないくらい、多種多様な競技が行われているんです。

二宮: 帰国後は、スポーツライターとしての道を歩み始めました。私が初めて青島さんの文章を読んだのは「Number」でのラグビーの記事だったんです。
青島: 神戸製鋼の記事でしたよね。

二宮: そうそう。あの記事は、本当に面白かった。表現の仕方が斬新だった。
青島: 「玉ねぎのようなディフェンス。むいてもむいても、相手の目にしみるタックル」とか、「ラグビーは体格のデパート」とかね(笑)。当時、僕は書く仕事を始めて、まだ1年くらいの新米。その僕に、飛ぶ鳥落とす勢いで活躍していた“二宮清純さん”から「とても面白い記事でした」という直筆の手紙をもらったんです。

二宮: あ、そうでしたか。私はめったに手紙は書かないのですが、どうしても感想を伝えたくなったんでしょうね。
青島: いやぁ、嬉しかったなぁ。少し自信がつきました。「オレでも、なんとかこの世界でやっていけるかな」と。それで「よし、もう少し続けてみよう」と思ったんです。本当に、あの時はありがとうございました。

 人間臭さを引き出すお酒が好き

二宮: その後は、テレビのキャスターとしても活躍しましたよね。
青島: 何が幸いするか、わかりませんね。その「Number」の記事を読んだNHKのプロデューサーが僕に声をかけてくれたんです。

二宮: 当時はまだ海外のスポーツはほとんど報道されていなかった時代でしたが、青島さんがキャスターを務めた「BSスポーツニュース」では、MLB(メジャーリーグ)、NBA(バスケットボール)、NFL(アメリカンフットボール)、NHL(アイスホッケー)のアメリカ4大スポーツを取り上げる斬新な番組でしたよね。
青島: 現地メディアから送られてくるビデオを毎晩、見て勉強しましたよ。大変でしたけど、面白かったですね。当時はまだ、海外スポーツを解説できる日本人がほとんどいませんでしたから、毎回ゲストには外資系の会社で働いている日本在住の外国人を呼んでいたんです。

二宮: 私もよく観ていましたよ。コアな情報が得られて、本当に面白かった。ある意味、「BSスポーツニュース」が国際的なスポーツ番組の先駆けでしたよね。
青島: 野茂英雄がメジャーに挑戦して、NHKがメジャーの試合を中継するようになったのと入れ替わるかたちで、番組は終わってしまいました。その後、どんどん海外スポーツが報道されるようになっていった。今にして思えば、93年から96年まで担当させてもらった「BSスポーツニュース」が助走の役割を果たせたのかなと思いますね。

二宮: さて、お酒もだいぶすすんでいますが、改めて「那由多(なゆた)の刻(とき)」はいかがでしょう?
青島: すっきりまろやかという感じで、どんどんいけちゃいますね。ソーダ割りもおいしいけど、ロックもまた味わい深くていいですね。

二宮: ロックで飲むと、いちだんと香りがいいでしょう?
青島: ブランデーにも似た上品さがありますよね。

二宮: 今も晩酌を欠かさないそうですが、現役時代もチームメイトと一緒によく飲みに行ったのでは?
青島: 行きましたね。今はあまり選手同士で飲んだりしなくなっているようですが、僕たちの時代は社会勉強のひとつという感じでしたね。野球の技術的なことはもちろん、人とのコミュニケーションの仕方など、そこで教わったことはたくさんありました。

二宮: よく飲みに行ったのは誰ですか?
青島: 八重樫幸雄さんや渡辺進さん、他の先輩方にもよく誘っていただきました。お酒を飲みながら、ふだんグラウンドでは聞けないような話が聞けたり、笑える話をしたりする。グラウンドではめちゃくちゃ怖い先輩たちも酒の席ではいろいろなことを教えてくれる。「そうか、そういう考え方もあるんだ」と学んだりしましたね。そんなふうに本音というか、人間臭さが出るのも、お酒の席だからこそですよね。人と人とを深いところでつなげてくれる。だから僕、お酒が好きなんです。

(おわり)

青島健太(あおしま・けんた)
1958年4月7日、新潟県生まれ。春日部高、慶応義塾大を経て、81年、東芝に入社。3年目の83年に都市対抗で優勝。1985年、ドラフト外でヤクルトに入団。同年5月11日の阪神戦でデビューし、プロ野球史上20人目となる初打席初本塁打を放つ。89年に現役を引退し、日本語教師として単身豪州へ。帰国後はスポーツライター、キャスターとして活躍。2005〜07年、セガサミー野球部の監督を務める。現在はライター、キャスター、解説者として幅広く活躍している。鹿屋体育大、流通経済大、日本医療科学大の客員教授。

★今回の対談で楽しんだお酒★[/color]

長期に渡り、樫樽の中で貯蔵熟成した長期貯蔵の本格そば焼酎「那由多(なゆた)の刻(とき)」。豊かな香りとまろやかなコクの深い味わいが特徴。また、ソーダで割ると樫樽貯蔵ならではの華やかなバニラのような香りとまろやかなコクが楽しめます。国際的な品評会「モンドセレクション」2014年最高金賞(GRAND GOLD QUALITY AWARD)受賞。

提供/雲海酒造株式会社

<対談協力>
がらく 恵比寿南店(野球居酒屋)
東京都渋谷区恵比寿南2−2−6 山本ビルB1F
TEL:050-5788-2205
営業時間:
月〜木 11:30〜14:30/17:30〜00:00(月〜木)
金 11:30〜14:30/17:30〜翌02:00、
土・祝日 17:30〜00:00
日曜不定休

☆プレゼント☆
 青島健太さんの直筆サイン色紙を長期貯蔵本格そば焼酎「那由多(なゆた)の刻(とき)」(720ml、アルコール度数25度)とともに読者3名様にプレゼント致します。ご希望の方はより、本文の最初に「青島健太さんのサイン希望」と明記の上、下記クイズの答え、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)、このコーナーへの感想や取り上げて欲しいゲストなどがあれば、お書き添えの上、送信してください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締切は5月8日(木)までです。たくさんのご応募お待ちしております。なお、ご応募は20歳以上の方に限らせていただきます。
◎クイズ◎
 今回の青島健太さんと楽しんだお酒の名前は?

 お酒は20歳になってから。
 お酒は楽しく適量を。
 飲酒運転は絶対にやめましょう。
 妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。

(構成・斎藤寿子/写真・杉浦泰介)


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