「撃つことだけに集中しろ」
 2010年9月、湯浅菜月は国民体育大会(千葉)に徳島県代表として出場していた。湯浅はその年、3月に全国高校選抜を制覇すると、8月の高校選手権でも優勝し、国体でも優勝候補にあがっていた。しかし、初日に体調を崩した影響で、少年女子10メートルエアライフル(AR)40発は予選敗退。残す同10メートルAR20発が、高校三冠達成のラストチャンスだった。冒頭の言葉は、その10メートルAR20発に臨む際、成年男子徳島代表の木内栄一郎(徳島県スポーツ振興財団)にかけられたものだ。湯浅は、この言葉が「頭の中にポーンと入ってきた」という。
 優勝に導いたアドバイス

 なぜ、木内はこの言葉を彼女に伝えたのか。
「彼女が自分に自信を持ち切れていないと感じていたんです。結果を出すには、自分を信じなければいけません。せっかく今まで、一生懸命練習してきたのだから、最後に実力を出し切ってほしいという思いで、アドバイスしました」

 競技中、湯浅は木内の言葉を、頭の中で繰り返し唱え、20発を撃ち終えた。点数は197点。彼女が銃を置いて、後ろを振り返ると、応援に来ていた徳島県の関係者席が沸いていた。湯浅がトップスコアラーだったのだ。
「撃ち終わってから、モニターで点数を見て、“まあまあ、いい点数かな”とは思いました。でも、まさか優勝とは……。周囲の反応を見て初めて優勝したと分かりました」

 いつもなら自分の点数が気になって、競技中に射座の手前にあるモニターでチェックしていたが、この日はそういうことはなかった。湯浅は木内から受けた助言を実践したのだ。とはいえ、“言うは易し、行うは難し”。木内は「アドバイスを素直に受け入れて、実行できるところが、彼女の素晴らしいところ」と湯浅を称えた。

 湯浅の優勝を周囲も大いに喜んだ。それを受けて彼女は、「泣きそうになった」という。
「優勝して、こんなにも喜ばれるのは初めてでした。徳島県代表として戦う、国体だからこそかもしれません。高校選抜、選手権で優勝した時も嬉しかったけど、国体が一番、印象に残っています」

 湯浅は高校選抜、選手権、国体の三冠というこれ以上ないかたちで、高校生活を締めくくった。

 プロとの距離が近かった日大

 全国大会で好成績を残した彼女は、複数の大学から推薦入学を打診された。だが、進学先を決める前に、湯浅はあることをクリアしなければならなかった。親を説得することである。湯浅は4人兄妹の末っ子で、兄3人はいずれも県外に出ていた。ゆえに、親から地元に残ってくれと言われていたのだ。

「確かに、地元の国立大学に進学して、徳島にある射撃場で練習するという選択肢もありました。でも、私は将来的にプロになりたいと思っていました。プロになるためにはどこに行けばいいのかと考えた時に、徳島を出るべきだなという結論に至ったんです」

 高校選抜を制した後も、親からは県外進学に対するいい反応はなかった。しかし、選手権で優勝したことを機に、親から引き留められることはなくなったという。子供の成長を止めたいと思う親はいまい。湯浅は結果を出すことで、親を説得したのだ。

 湯浅は関西、関東の大学へ見学に行き、射撃部の環境などをチェックした。その上で、まずは関東の大学に進学先を絞った。東京にはナショナルトレーニングセンター(NTC)、国立スポーツ科学センター(JISS)といったナショナルチームの拠点がある。最新の設備、情報が揃う関東に進学することが、プロになる可能性を高めると彼女は考えたのだ。

 そして、最終的に湯浅が進学先に選択したのは、日本大学だった。日大射撃部は、寮に射撃場を備え、いつでも整った環境で練習ができる。そして、湯浅には他にも日大進学の決め手があった。
「強い人がたくさんいる、ということですね。部員はもちろん、日大射撃部の射撃場には、実業団の選手も練習に来られるんです。プロの実力を間近で見て、学べるということが、すごく魅力的でした」

 すべてはプロになるため――。湯浅は11年4月、日本大学で新たなスタートを切った。

(最終回へつづく)

<湯浅菜月(ゆあさ・なつき)>
1993年1月18日、徳島県小松島市出身。小松島高校―日本大学。08年、高校1年時に射撃を始める。種目はライフル射撃。高校3年時に高校選抜、インターハイ、国体(10メートルAR20発)を制覇。11年、日本大学に進学した。個人では11年全日本学生選抜、12年全日本女子学生で10メートルAR、13年全日本女子学生では50メートルライフル3姿勢を制覇。また13年全日本女子学生では団体優勝にも貢献した。2012年度からナショナルチームに選出されている。



(文・写真/鈴木友多)


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