先月の半ばから3週間、ブラジルのサンパウロに滞在していた。
 ワールドカップを控えてスポーツ用品店の店頭には、黄色に緑色を縁取ったブラジル代表のユニフォームが飾られていた。そうした店ではかなりの確率で、スペイン代表、ドイツ代表、そして我らが日本代表の青いユニフォームも見つけることができた。この国には100年を超える日本からの移民の歴史があり、とくにサンパウロ州には日系人が固まっている。加えて、昨年のコンフェデレーションズ杯のイタリア戦での健闘も大きかったのだろう。このサッカー王国で日本代表が認められているようで嬉しく思った。
(写真:偽物のユニフォームを並べた問屋街。ここはセレソンのユニフォームだけだ)
 1997年から98年に掛けて、ぼくはこの街で生活していた。今回も、あのときと同じように、まず目が覚めるとキオスクで新聞を買い求めて、バールに入った。甘いカフェ・コン・レイチ(カフェオレ)を飲みながら、新聞を読むのだ。

 紙面から感じたジーコの日本愛

 ぼくが愛読している『オ・エスタード・サンパウロ』紙は、政治や国際ニュースなどの主要な折の他、金融、スポーツなどの折が挟み込まれている。スポーツに関しては日本の一般紙よりもずっと多くの紙面が割かれており、内容は濃い。ある朝、そのスポーツの折の最後の一面に懐かしい顔を見つけた。

 元日本代表監督のジーコである。
『クラッキの授業』というタイトルの下に、ジーコとの一問一答に一面を割いていた。「クラッキ」とはポルトガル語で才能ある選手のことを指す。

 その記事の終わりの方で、「日本」という文字を見つけた。
<予想外の躍進を遂げる可能性のある国>という質問にジーコは「日本」と答えていたのだ。
「グループCのコロンビア、コートジボアール、ギリシア、日本はどれもW杯で突出した結果を残したことがない。コロンビアにはファルカンがいない。ギリシアのサッカーは最悪だ。コートジボアールのサッカーはあまり信用できないしね」

 ジーコの言葉には説得力がある。
 同じ南米大陸のコロンビアの情報は手に入れやすい。さらにギリシアについては、かつて彼はオリンピアコスで指揮を執っていたからだ。
 監督を解任された直後、ぼくがギリシアでの「経験」について尋ねると、彼が憤然とした表情になったことを思い出した。ジーコは「この国の風景は素晴らしい。特に海岸は行く価値がある。人々は信用できないけどね」と吐き捨てた。

 ジーコは就任1年目にチームを欧州チャンピオンズリーグで決勝トーナメントに導いたものの、国内リーグでライバルのパナシナイコスの後塵を拝していた。2年契約であったにも関わらず、就任から4カ月で突然解雇されたのだ。
 この新聞の中でも、ギリシアには厳しい評価を下していた。「ギリシアのレベルは低い。フィジカルに頼った中庸なサッカーだよ」

 一方で、W杯の参加国で気に入っている監督として、アルベルト・ザッケローニの名前を一番に挙げていた。先述の日本をダークホースに挙げたことも含め、紙面からはジーコの日本に対する愛情を感じた。そして、この記事を読みながら、ぼくの頭にふと、ある選手の顔が浮かんだ。

 その男はジーコと同じようにJリーグが始まる前から日本にいた。彼は日本でジーコよりも多くの得点を挙げている。Jリーグへと移行する前、最後の「日本サッカーリーグ」では得点王にも輝いた。読売クラブ(現東京V)、清水エスパルスなどで活躍したトニーニョである。

 トニーニョが発した意外な名前

 トニーニョはJリーグ誕生と共に、読売クラブから、創設されたばかりの清水へと移籍した。勝負強い選手で、得点を挙げた後、飛行機のポーズで喜ぶ姿が印象的だった。
 彼もまた今の日本サッカーの礎を築いた人間の一人である。トニーニョは長足の進歩を遂げた日本をどんな風に見ているのだろうか――。

 ジーコは引退後も日本と繋がりが切れなかった。一方、トニーニョの話はほとんど聞かない。探してみると、彼はサンパウロ州のジャウーという街に住んでいた。
 ジャウーは、元日本代表の三浦知良が名を挙げたクラブ「キンゼ・デ・ジャウー」がある街だ。トニーニョはカズと共にキンゼ・デ・ジャウーの下部組織にいたことを思いだした。

 トニーニョに「話を聞きたい」と連絡をとると、快く受けてくれた。
 南半球のブラジルはすでに秋に入っているが、サンパウロから約300キロ離れたジャウーの街は、太陽がじりじりと照りつけ、暑かった。
(写真:ジャウーの広場に現れたトニーニョ)

 待ち合わせ場所とした、教会のある広場にトニーニョがやってきた。かつてと同じように愛嬌のある笑みを浮かべていた。
 まず彼に日本からブラジルに戻った後のことを尋ねた。そこで出てくる名前は意外なものだった。

 FCバルセロナ時代のルイス・ファン・ファール、ロベルト・クーマン、オリンピック・リヨン時代のジャック・サンティニ、そしてビジャ・レアル時代のマヌエル・ペレグリーニ――。皆、世界的な名将である。

 ファン・ファールは今回のワールドカップでオランダ代表を率いており、香川真司のいるマンチェスターの次期監督の候補者の1人である。ジャック・サンティニはオリンピック・リヨンで名声を築き、フランス代表監督となった。ペリグリーニは、世界で最も競争の激しい、イングランドのプレミアリーグのマンチェスター・シティの監督として結果を残している。
 欧州のクラブチームでプレーしたことのない、トニーニョに彼らと接点があるとはぼくは思ってもいなかった。なぜ、トニーニョの口から錚々たる面々の名前が出てきたのか――。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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