「でも僕は無理ですね。ああいう圧倒的な投球はできないので、これからも泥臭く抑えていきます」
 もちろん、多少の謙遜、あるいは先輩への遠慮が含まれているのだろう。ただ、本音でもあると思うのだ。声の主は田中将大(ヤンキース)。5月9日(現地時間)のレッドソックス戦で、ダルビッシュ有(レンジャーズ)が9回2死までノーヒットの快投を演じたことを指してのコメントである。
(ちなみに、この試合のダルビッシュは7回2死まで完全試合だった。迎えたデヴィッド・オルティスもセカンド後方への平凡なフライに打ち取り、残るは8、9回かと思った瞬間、打球はライトとセカンドの間に落ちた。どう考えても記録としてはヒットだが、記録員がよほど悔しかったのか、ライトのエラーと発表して、無理矢理ノーヒットを継続させた。後日、記録はヒットに訂正されたが、田中のこのコメントの時点では、9回2死までノーヒットが続いていたことになっていた)

 ご存知の通り、田中の活躍が目覚ましい。5月は5勝、防御率1.88で月間リーグ最優秀投手に選ばれた。このままいけば、最多勝も夢ではあるまい。では、「泥臭い」という謙辞の内実とは、どのようなものか。嫌なヤツだと言われそうだが、まずは今季(6月6日時点)唯一の負けを喫した5月20日(現地時間)のカブス戦から見てみよう。実はこの試合、立ち上がりは素晴らしかったのである。例えば1回裏、3番アンソニー・リゾに対する投球(リゾは左打者)。

? スライダー 外角高目(外からストライクゾーンに入れる)ストライク
? ツーシーム 外角低目 ファウル
? ストレート 内角低目 ボール
? カットボール 内角高目 ストライク 空振り三振!

 最後のカットボールはインハイにものの見事なコントロールで、打者は手も足も出ない。うひゃあ、すげーな、と叫びたくなる。ただ、この日の彼の本領はここではない。この試合、3回裏に突如、大雨が降り出した。負けの原因の過半はこの雨にある。濡れたボールが滑って、肝心のスプリットがうまく抜けず、落ちないのだ。高目に浮いたスライダー、スプリットを狙い打たれて4回1死までに2失点。さらに1死二、三塁の大ピンチ。

 ここでカブスのジェイソン・ハメルはなんと初球スクイズ。ピッチャー前に転がった打球に田中は素早く反応。直線的にマウンドを降りて来て、捕手にグラブトス。完全なアウト。2死一、三塁。続くエミリオ・ボニファシオはなんと初球セーフティバント。これは三塁線にうまく転がされた。田中、三塁側に降りて来て、今度は右手、素手で捕って捕手にトス。アウト! これ、一塁に投げたらおそらく間に合わなかった。2死、三塁線への巧妙なバント、走ってくる三塁走者――。その瞬間に一塁送球ではなく、捕手にトスした判断がいい。雨中の最悪のコンディションの中、相手の奇襲をかわして2失点で踏みとどまる。だから容易に負けない。これが田中である。

 もっといえば、5回裏には、空振りかファウルかの判定を巡って、ジョー・ジラルディ監督が例の「チャレンジ(ビデオ判定)」におよび、待たされた上、「ビデオで確認できないため審判の判定通り」という結論になるという、「なんじゃそりゃあ」な出来事があった。通常なら投手がマウンドで集中を保つのは困難な状況だったが、なんと田中はめげずに、この回を三者三振に退けている。6回裏に打たれたのは仕方ないとして、これが「泥臭く」勝ち続ける投手のメンタリティというものだろう。

 負けゲームだけというのもなんなので、8勝目を挙げた5月31日(現地時間)のツインズ戦にも触れておく。この試合、目を引いたのは、ツーシームである。ツインズを代表する打者といえば、3番ジョー・マウアーだ。例えば、5回表、1死一塁でマウアーの場面(マウアーも左打者)。初球、ツーシームがインコース低目、ボールゾーンからストライクゾーンに入ってくる。マウアー、これを打って、あっさりセカンドゴロ併殺。

 もちろん、スライダーもいいし、スプリットも低目に落ちる。変化球をコーナーへ決めるときは、適度に脱力して投げているように見える。ここぞの時に、力を入れればよい。そうすれば、1年間体力を維持しローテーションを守ることができる。ひいては契約をまっとうすることができる。そういうピッチングである。もうひとつ特筆すべきことは、とにかくツーシームがえげつないくらいグイッと曲がる(シュートする)。とりあえずツーシームでカウントは稼げる。あとは根気よく、スプリットを落とす。これが、本人の言う「泥臭い」スタイルである。

 ダルビッシュ、圧倒的支配のピッチング

 一方のダルビッシュ。田中の言う「圧倒的な投球」とはどのようなものか。この際だから、完全試合をやり損ねたレッドソックス戦を例にとろう。例えば3回表のA・J・ピアジンスキーの打席。ちなみに、ピアジンスキーは昨年までバッテリーを組んでいた捕手である。明らかに両者ともそれを意識している。まず、ストレートが3球続けて外れて、カウント3−0となってしまう。ここから――。

? ストレート ストライク
? ストレート 高目に入ったがファウル
 カウント3−2。ここで、サインに首を振る。この球が勝負球だといわんばかり。
? ストレート 外角低目 ファウル
 さて、勝負球をもう一球。
? スライダー 外角に決まって見逃し三振
 え〜、外からスライダーかよ。そんなの、昨年まで投げていた? ピアジンスキーはお手上げのポーズ。

 もちろん、ダルビッシュには多彩な変化球がある。スライダーで勝負することも多い。しかし、この場面では、あえてストレートを6球続けている。しかも、はじめの3球はいずれも投げ損ないのボール。その原因は、当然ダルビッシュにある。そのあとの3球が入ったのも、スライダーで打者を茫然とさせたのも、ひとえにダルビッシュの事情である。そのようにして、ダルビッシュが、球場を支配している。

 この試合は、オルティスに完全試合を断たれ、9回2死からヒットも打たれるのだが、4回表の2打席目が面白かった。初球は95マイル(153キロ)のストレート。2球目、捕手のサインに首を振り続ける。あわてて捕手がマウンドに来たら、なにやらケンカ腰で怒鳴りつけてから、ニヤッと笑う。で、2球目は――。ストレート96マイル(155キロ)。うなりを上げる外角球で、レフトフライ。上から下へ投げ下ろす、圧巻の剛球だった。

 レッドソックスで一番の強打者はオルティスである。完全試合をやるためにも、ストレートで、しかもツーシームなどではなく、いわゆる直球で牛耳っておこうと考えたのだろう。そこへ、捕手がスライダーとかツーシームとか出したから、「ここはストレートなんだよ」と怒鳴ったのではないか(まったくの想像ですが)。

 何も、ストレートを多投するから圧倒的なのではない。ストレートにしろ変化球にしろ、ダルビッシュの場合は、投手が打者よりも優位に立っている。いわば、上から下へ投げている。だから圧倒的なのである。

 きわめて比喩的な言い方になるが、その点、田中はツーシーム、スライダーという横の変化を前提にして、そこからスプリットを落とす。その限りで、投手と打者は同じ高さにいると言えるのではないか。支配するのではなく、一人ひとりを順番になぎ倒していく。「泥臭さ」と「圧倒的」とは、そのような違いを指しているのではないか。

 華麗な守備で支配する菊池

 メジャーリーグの話ばかりになってしまった。日本のプロ野球で、今「圧倒的な」という表現で思い浮かぶのは、まず、広島の菊池涼介の守備ではあるまいか。少なくとも、ダルビッシュの完全試合が破れたオルティスのセカンド後方のフライは、菊池なら捕っていた。

 開幕から、いくつものスーパーなファインプレーを見せているが、例えば5月29日の千葉ロッテ戦。6回1死で打席はサブロー。投手は前田健太。カウント2−2から、シュート系のインコースに沈む球をサブローが打つ。打球は大きくバウンドして、投手の頭を越え、センター前へ抜けた……と、思ったらセカンド菊池が二塁ベース後方に出現、センター前の位置で打球を掴むと、ショートの方向へ流れながら一塁へ反転送球。アウト!

 このプレーで瞠目すべきは、まずグラブの動きである。二塁定位置からショート方向へ走っているのに、グラブは大きく開いて打球に正対させ、下から上へと動かして捕球。これが美しい。菊池はいつもグラブの面が打球に正対する。そして、ショート定位置付近まで横に流れる動きの中で、一塁へ低くて強い送球をする。ちなみに、捕るだけ捕って、形作りにジャンピングスローで山なりの送球をしたら、明らかにセーフのタイミングなのである。直後、球場全体が自然発生的に、どよめくような拍手に包まれる。やはりこの瞬間、菊池は球場を支配したのである。

 山武司さんが春先のテレビ解説で素晴らしいことをおっしゃっていた(記憶で書くので、細部が不正確だったらごめんなさい。ただ、彼の解説には含蓄がある)。若手野手には「守備は底引き網じゃないんだぞ」と教える、というのだ。つまり、人工芝だと、グラブは下に置いておけばボールが入ってくれる。だからグラブを下から上へ上げない若手が多い。しかし、土のグラウンドだと、下から上に上げないと入らない。グラブは、下から上へ。これが守備の基本である。菊池は、まさかというようなイレギュラーに反応して捕ることがままある。下から上へが身についているからである。本拠地球場が土のグラウンドであることも、菊池の守備を圧倒的に見応えのあるものに育てた一因といっていいだろう(野球は、もっと天然芝でやりましょうよ!)。

 田中とダルビッシュに戻ろう。田中の投球は、まさにメジャーリーグが求めていたものだろう。結果が、田中とは何者であるか、そのすべてを証明する。彼の勝ち星は、おそらく巨額の年俸と見合うものになるに違いない。ダルビッシュは、過剰なのである。どこかで、米国が求めているものさえも逸脱しようとする。言葉を換えれば、だからメジャーをも支配している。そういう球筋なのだ。

 レイモンド・チャンドラーの小説『プレイバック』の、有名な台詞を思い出す。ここでは、鬼界彰夫さんの好著『生き方と哲学』(講談社)から引用しよう。こう訳しておられる。主人公の探偵フィリップ・マーロウの言葉である。
<もし非情でなかったら、俺は今生きていなかっただろう。もし時にやさしくなることすらできなかったのなら、俺が今生きている値打ちはなかっただろう。>

「非情」の原語は「hard」である。「やさしく」「gentle」だ。一般に、「男はタフでなければ生きてゆけない、やさしくなければ生きていく資格がない」というふうに訳される名言ですね。より原文に忠実な鬼界訳を紹介した。「hard」とは、堅牢で頑丈で耐久性がある、しっかりした、という意味をもつ。とすれば、まさに田中の投球に相当するだろう。一方、ダルビッシュの投球を、まさか語の単純な意味で「やさしい」とは言えない。ただ、あえて牽強付会をすれば、あの球筋は、ある種の「優雅さ」(gentle)を内包しているとは言えるのではないか。

「泥臭さ」と「圧倒的」、あるいは、「hard」と「gentle」。田中のコメントは、二人のエースの球筋を、投手としてのふたつの生き方にまで響かせて語った、なかなかに味わい深い言葉だったのかもしれない。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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