「アトランタ五輪が終わった時には、このままじゃ終われないという部分はありましたね。やはり団体でメダルを逃して、個人でもメダルを獲れなかった。なんとかリベンジしたかった」。畠田好章は、失意のアトランタ五輪を終えて、次なる目標へと向かおうとしていた。
 ただ前回の時と比べて、“4年”という時間の感覚が違っていた。「20歳の時の“あと4年”と、24歳の時とではやることは大きくは変わらないんです。でも、バルセロナ五輪はある程度、目標を達成できて、前向きな気持ちで次を迎えられましたが、アトランタ五輪は全然ダメだった。採点で演技を評価してもらえず“4年間はなんだったんだ”という思いもありました。バルセロナ後のように“次の4年後”というふうにはいかず、気持ちを整理するのには時間がかかりましたね」。最年少で初出場したバルセロナ五輪と、エースとして臨んだアトランタ五輪。大会への意気込みも、のしかかるプレッシャーの重さも違っていた。その分、アトランタでの結果に対するショックは大きかった。

「でも、“やるしかない”というのはありました」。自らを奮い立たせ、次第にモチベーションを取り戻していった。畠田は1997年6月の代表選考会で2位に入り、世界選手権の代表入りを決めた。

 同年9月にスイス・ローザンヌでの世界選手権に出場した畠田は、団体で4位、個人では総合11位、種目別鉄棒5位と、アトランタ五輪と同様、表彰台には上がれなかった。一方、代表選考会で畠田を上回り、トップで通過した5歳下の塚原直也は個人総合、種目別平行棒で銅メダルを獲得。世代交代の波が押し寄せてきていた。

 初めての大ケガ、現役を退く決心

 畠田は世界選手権から帰国後、1カ月も経たないうちに出場した全日本社会人選手権で、アクシデントに見舞われてしまう。大会前、畠田は練習で右足を痛めてしまった。なんとか間に合わせるために座薬を入れ、強行出場した。悲劇が起こったのは、平行棒の演技中だった。「座薬を入れたので、右足の痛みはありませんでした。でも感覚がない分、身体の反応がわからなかった。それで平行棒から手が抜けて、ボーンと外れて頭を切ったんです」。畠田は右側頭部を支柱に打ちつけて裂傷を負い、すぐに病院に運ばれた。

 頭部は縫ったものの、幸い脳波に異常はないと診断された。しかし、痛めていた右足は骨折していた。半年ほどのリハビリを余儀なくされた。「大きなケガも初めてだった。(休んで)身体も小さくなり、“なんとかしなきゃ”と思って、必死にリハビリもやったのですが、次の年には間に合わず、代表になれませんでした」

 結局、2000年4月に現役引退するまで代表には入れなかった。
「若い時だったら治りも早かったと思うのですが……。首から落ちた後遺症で、後にしびれが出たりもしました。足首の痛みはなかったのですが、無意識にかばったりしていた。やるべきことはわかっているのですが、気持ちも身体もうまく動かなかった」。満足のいく練習を積めなければ、当然結果も出ない。それなのに奮い立たない自分がいた。「うまくいっていた頃は、多少練習がこなせなくても、試合ではその緊張感で補えて勝つこともありました。でも、この時はそれ以上に練習ができていなかった」。それまでの積み重ねもなくなり、代表からは遠ざかる一方だった。

 ケガや身心の衰えに苦しんだアトランタ後の約3年間を振り返って、畠田は語る。
「当時は、おもしろくなかったというか、自分の中で“今日、いい練習したな”という日がすごく少なかった。月1回あるか、ないかぐらい。一度、代表を経験して自分の中でどれほどのコンディション、演技の出来に近付けなければいけないと、わかっていた。高いレベルを出さないといけない分だけ、やるべき練習も簡単ではなく、なかなかそこに到達できない自分がもどかしかった」

 引退を考えたのは、99年のシーズンだった。「身体的にも体力的にも限界でした。ナショナルメンバーは12人。それぐらいを目指すのであれば、まだ可能性はありました。ただ、(国際大会の代表枠)6番以内を目指すとなると、前年は十分に練習が積めていないということもあって、難しい。だからこの年の全日本選手権に引退するのがちょうどいいかなと」。最後のつもりで臨んだ全日本だったが、得意種目のひとつである鉄棒で、悔いを残してしまった。

「最後の最後でこけてしまった。着地を止めていれば、たぶん優勝できた演技だったんです。だから“この演技をもう1度やりたい”と思ってしまった。その時点で(シドニー五輪の)代表入りが厳しいのはわかっていましたが、続けることにしたんです」。しかし結局、シドニーの五輪の代表選考会でも自分の納得のいく演技はできなかった。「そこが限界だったんです。代表入りに向けてやってきたので、続けたという選択は間違いではないかもしれない。意識としては、とにかくいけるところまでやろうと。シドニーに行くことができれば、シドニーに出て終わり。もし代表の選考に外れた場合は、いさぎよくやめようと思っていました」。00年4月、畠田はシドニー五輪第2次選考会で、27位に終わった。最終選考会には残れず、現役生活に幕を閉じたのだった。

 米国で再確認した基礎の重要性

 引退後は指導者の道を考えていた。幸いにも母校の日体大から話があった。そこで畠田は、日本オリンピック委員会(JOC)のスポーツ指導者海外研修を利用し、米国へと渡った。スタンフォード大学体操競技部のアシスタントコーチとして、2年間コーチ学を学んだ。「アメリカの大学生を見ていて、日本人に対して教えたいと思うことはたくさんありました。“こういう考えがあって、アメリカ人はこう思うんだな”と。そういう意味で、海外で教えることは新鮮でしたね」。畠田が日本体育大学の選手だった頃、同大のコーチを務めていた具志堅幸司もまた、指導者になる前、ドイツ留学を経験していた。「やはり幅が広がりますし、日本と違うやり方を知ることはいいことですね」。異国での生活を含め、色々な価値観に触れることは指導者とだけでなく、ひとりの人間としてもプラスになったはずだ。

 留学の効果はそれだけではなかった。畠田はこう語る。「基本の大事さを改めて感じました。教えていて、ちゃんと基本をやらせないと技も安定しなかったんです。もちろんわかってはいたことですが、実際に選手を見ていると、余計にその思いを強くしました」。日本では、当たり前過ぎて気付けないこともある。それを知っただけでも大きな価値があったといえるだろう。帰国してからは、晴れて日体大体操競技部のコーチとなった。当時、同大の監督を務めていたのが具志堅だった。

 具志堅から見て、新米コーチの畠田はどう映ったのか。「細かいところに気を付けてくれました。彼は練習の大事さを学生に説いてくれたんです。試合に向けての準備を大事にし、常に80点以上を出すことを目指させていましたね。その点は私の考えと一緒でした」。監督・具志堅とコーチ・畠田の一貫した指導により、全日本インカレ、東日本インカレなど、日体大は多くのタイトルを獲得した。

 のちの世界王者・内村航平との出会い

 畠田の指導者生活の中で、強く記憶に残っている選手がいる。現在、世界選手権個人総合で前人未踏の4連覇中、ロンドン五輪の個人総合金メダリストの内村航平である。彼が入学したのは、今から7年前のことだ。内村は06年に高校選抜、全日本ジュニアを制するなど、全国大会優勝経験もあり、高校生でナショナルメンバー入りを果たしている将来を嘱望されていた存在だった。

 当時の監督である具志堅の勧誘の元、内村は日体大に入ってきた。畠田の印象は「普通の高校生とはモノが違うなと。技もすごいですし、できる技も豊富でしたね。“どう構成作るんだろうな”というくらい技ができるので、それをまとめていくのが大変かなと思ったぐらいです」と光り輝く才能を感じとったという。監督の具志堅も「誰が見ても北京五輪に行かせなければいけなかった選手」と語るほどだった。

 畠田も体操界を背負う存在になると確信していた。いや、そう導かなければいけないという責任感があったのかもしれない。
「大学に入ってすぐは、世界で勝てるというレベルではなかったんです。でも、やっている内容を見ていて、これが完成されれば勝負はできるんじゃないかとは感じていました。絶対に日本の代表、トップにしていかないといけない選手だなというのはありましたね」

 それにはまず、国際大会を経験し、意識改革が必要だと考えた。「内村には“とにかく代表に入れ。入ったらわかるから”と言いました。本人は“はぁ……”という感じでしたけどね」。大学1年時、内村は世界選手権の代表からは漏れたものの、ユニバーシアードへの出場が決まった。メンバーには、アテネ五輪の金メダリストである水鳥寿思がいれば、坂本功貴、田中和仁と、のちの五輪代表になるような選手たちがズラリ顔をそろえていた。その環境が内村の意識を変えた。後に内村はこの時のことを、こう語っている。
<「それまでは調子が悪いと『もういいや』という気持ちになって、楽な練習しかやらなかったのです。ところがユニバーシアードの代表になり、合宿に参加したところ、まわりを見るとそんな人は一人もいない。自分もそうならなければと思いましたね」>(日本体育大学HPより)

 タイ・バンコクで行なわれたユニバーシアードで、内村は日本代表として団体金メダルに貢献、個人でも種目別ゆかで金、跳馬で銅メダルを獲得した。さらに帰国して、約1カ月後の全日本インカレでも個人総合で優勝してみせた。

 それまでは畠田から見て「安定感はなかった」という内村。「1個1個の技はレベルが高くて、熟練されている技も結構あった。でも、その技を繋げていき、試合で使う技として、練習で通し込んで試合に行くというタイプじゃなかった。本来、体操競技は6種目全部で通しをやらないといけない。ところが当時の内村は、試合に向けて練習をしていく時も、1個1個の技ばかりやっていました。自分の感覚の中では、それでできると思っていたんだと思うんです。“これだけやっておけば、試合は何とかなる”と。でも結局、安定感がなかった。ミスをすることもあったし、そのへんが甘かった部分ですね」。畠田は内村の改善すべき点を、対話しながら、注意し言い聞かせた。尊重する部分は尊重もした。「本人はすごく楽しそうに練習していたので、その楽しさはできるだけ奪わないようにとも考えました。そこの持っていき方はうまくいったのかなとは思いますね」

 畠田の細やかな気配りの指導は、実を結んだ。内村は08年に北京五輪での団体と個人総合で銀メダルを獲得するなど、更に進化を遂げる。そして今や世界の頂点に君臨するほどの存在にまで駆け上がっていった。もちろん、内村自身の才能、努力の賜物だが、畠田の指導がそれを後押ししたことは間違いない。選手の輝きを錆びつかせることなく磨き、更に煌めかせることができた自信は、指導者としても貴重な財産となっている。

(最終回につづく)
>>第1回はこちら
>>第2回はこちら
>>第3回はこちら

畠田好章(はたけだ・よしあき)プロフィール>
1972年5月12日、徳島県生まれ。小学2年で体操競技をはじめ、鳴門高校時代にインターハイ2連覇を達成。高校3年時、90年のアジア大会で初の代表入りを果たす。日本体育大学に進学後、92年のバルセロナ五輪に出場し、団体銅メダルに貢献した。93年の全日本選手権で個人総合初優勝。95年には2度目の優勝を果たした。同年の世界選手権では団体、鉄棒、あん馬でいずれも銀メダルを獲得。96年のアトランタ五輪にも出場した。2000年に現役を引退。指導者研修のための米国留学を経て、03年から日体大コーチとなり、内村航平をはじめとした数々のオリンピアンを指導した。



(文・写真/杉浦泰介)


◎バックナンバーはこちらから