「やっている時にはそれほど感じませんでしたが、現場を離れてみて、やはり大きいなと……」。日本体育大学体操競技部前監督の具志堅幸司は、常勝を義務付けられた名門校でのプレッシャーをこう語る。日体大はこれまで在校生、OBを含め日本が出場した五輪全てに代表選手を送り込んでいる。現在、世界の頂点に立つ内村航平も卒業生の1人。日体大は常に日本の体操界をリードしてきた存在だ。しかし、近年は思うような結果を残せていない。大学日本一を決める全日本学生選手権(全日本インカレ)では、ライバルの順天堂大学に3連覇を許している。だが、現監督の畠田好章は、結果だけに固執してはいない。
 今年5月、全日本インカレの行方を占う前哨戦となる東日本学生選手権(東日本インカレ)の個人総合で3年の岡準平が優勝した。一方、団体では順大に次ぐ2位だった。大会を振り返り、畠田はこう語る。
「団体は順大に負けていることが多いので、なんとか勝ちたかった。選手もその気持ちで臨んでいたのですが、ミスが結構出てしまった。特にあん馬が顕著で、その後の種目でもミスが続いたことがもったいなかったです。負けるにしても、もう少し競って負けていたら、全日本インカレにもつながるのですが……。結果としてはちょっと納得のいかないものでしたね」

 優勝した順大との点差は6.850。種目別での内訳を見ると、6種目中日体大が上回ったのはつり輪の1種目だけだった。ゆか、跳馬、鉄棒の3種目はほぼ互角だったが、平行棒は1.550点差、あん馬にいたっては4.850点と完敗だった。しかも順大はWエースのひとりである加藤凌平を欠いていた。将棋で例えるならば飛車角のどちらかを抜いて打ったようなものだ。

 岡が優勝を収めた個人総合についても納得はしていない。畠田は「全体的にはいい演技だったと思うのですが、あまり評価されませんでした」と声を落とす。個人総合を制したことを素直に喜べない理由は、順大の野々村笙吾がケガのために最後の6種目目のゆかを回避したことにある。岡の総合得点は88.400点で、野々村は75.550点。その差12.850点は野々村の実力を持ってすれば、大きなミスでもない限りゆかで優に超えられた数字である。

 東日本インカレでも見せつけられたように、順大との差は小さくはない。今月8日に行われたNHK杯でも、優勝した内村に次ぐ2、3位に入ったのは野々村と加藤で、2人は10月の世界選手権の出場権を勝ち取った。一方、日体大勢はというと、4年の武田一志の5位が最高位だった。

「軸と呼べる選手はいるのですが、まだ代表に入っていない。ナショナル強化指定には入っているので、その選手たちがひと皮むけてくれれば、軸はしっかりしてくると思うんです」
 軸と呼べる選手――武田、岡、神本に寄せる期待は大きい。現在、体操界全体で言えば内村が頭ひとつ、いや、ふたつ抜けている。それを追う2番手グループに加藤らがいる。「そこに近づいていけるようにならないといけませんね。野々村なんかは内容的には内村と同じぐらいのレベルまでには来ていると思うので、武田、岡、神本あたりが上に行って接近できればいいのですが……」

 NHK杯ではひとりも世界選手権の切符を掴めなかったが、日体大からは4名が12位以内に入り、ナショナル入りを果たした。7月の全日本種目別選手権の結果次第では、世界選手権代表選出の可能性もゼロではない。だが、ロンドン五輪の代表メンバーである山室光史、田中佑典も出場し、昨年の世界選手権の種目別の金メダリストである亀山耕平、白井健三もいる。残り3枠の代表に滑り込むことは容易ではない。

 ただNHK杯での5位・武田、6位の神本は、世界選手権代表に漏れたとしても9月のアジア競技大会の代表に選ばれる確率は高いと見られている。国際大会での経験が貴重な養分となり、彼らの才能の萌芽を手助けすると畠田は信じている。とはいえ、選手たちの代表入りを焦ってはいない。
「卒業後でもいい。早く代表になるにこしたことはないのですが、それは簡単なことじゃない。だから現役じゃなくても社会人になって以降でも、いつか世界選手権、オリンピックの代表になってくれれば、それが一番うれしいですね」

 与え過ぎず、任せ過ぎないこと

 03年から10年以上に渡って日体大一筋で指導を続けている畠田。学生を教える上で気を付けていることがある。「指導者が全てを決めてしまったら、選手自身が考えなくなってしまう。だからなるべく自分で選ばせる。方向性が間違っていれば、話をして正解へと導く。もちろん、どちらもありという場合もあります。その子の良さはひとりひとり違うので、全部が全部、“オマエはこう”“こっちはこうやれ”というものでもない。すべてを指示し過ぎるのは、どうかなと思うので、ある程度、自分たちに任せる。そうやった方が本人も納得もできますしね」。干渉し過ぎない距離感。聞かれれば答えるが、押し付けるようなことはしない。

 だが、任せ過ぎて失敗したこともある。畠田がコーチだった頃の07年10月の全日本選手権。団体で、日体大は最終組最終演技者を残してトップに立っていた。当時は5人が演技をして全員の得点が加算されるシステム。ラストのゆかで、日体大は4人目までノーミスの演技でつないでいた。すべては当時4年生だった沖口誠に託された。ゆかは彼の得意種目で、団体の前に行われた種目別では優勝していた。しかし、その日の沖口は畠田の目には調子を崩しているように映った。練習で、いつものキレがなかったからだ。そこで「(難度を)落とした構成でやろう」と畠田は提案した。だが、沖口は「(そのままで)行けます」と答えた。畠田は、最後は沖口自身に任せた。

 その結果、沖口はラインオーバーや着地で尻餅をつくなど、散々だった。得点は13.100。種目別の決勝では16.150の高得点を叩き出した得意種目で、まさかの大失速をしてしまった。これが大きく響き、徳洲会体操クラブに0.4点差で優勝を明け渡す結果となった。

 沖口のとった選択を尊重したことに畠田の後悔はない。「アイツの活躍があって、トップにいた。だから最後は任せようと。ただ試合は最後まで何があるかわからないなと改めて実感しました。次に同じ条件になった時に、また同じようにやらせるかと言ったら、たぶんやらせないと思いますね。これも、そういう経験をしたからこそわかったことですね」。状況の見極め、取捨選択の判断はもちろんのこと、勝負は下駄を履くまでわからないと痛感した場面だった。

 焦らずじっくりと見守る指導

 今年も8月には全日本インカレ、秋には団体日本一を決める全日本団体選手権が控えている。当然、日体大の指揮を執る畠田はどちらも王座奪還を狙っている。だが、目先の結果だけを求めているわけではない。

 学生の中には自分の可能性に気付かず、在学中に羽ばたくことができない者もいる。それでも大学で何かのきっかけを掴んで欲しいと畠田は思っている。「レベルの上下は別にして、それぞれ選手には良さがあるんです。でも、そこに気付いていない場合だってある。可能性はあるのに、自分のことを理解していないんです。だから、そこを気づかせることも指導だと思っています」。勝つことだけでなく、選手たちを正しい道に導ければ、と考える。

 前任の監督である具志堅は、指導者としての畠田を「選手のことをよく見ているし、一生懸命やっていますね」と評価する。畠田が鳴門体操クラブ時代から高校を卒業するまで彼を指導した中瀬健は、最近徳島で会った時にこう感じたという。「監督になった責任からか、風格が出てきて、言葉のひとつひとつが重い感じがしましたね」。2人に限らず、彼を指導者として期待する者は多い。

 厳しい練習で知られる日体大だが、横浜市にある体操競技部の練習する体育館を訪ねてみると、元気な声が響き渡り、明るい表情が溢れていた。選手たちの顔には「体操が好き」と描いてあるようだった。滑り止め用の炭酸マグネシウムの粉が舞う体育館で、一生懸命練習をこなす選手たちを畠田は、今日も優しい眼差しで見守っている――。

(おわり)
>>第1回はこちら
>>第2回はこちら
>>第3回はこちら
>>第4回はこちら

畠田好章(はたけだ・よしあき)プロフィール>
1972年5月12日、徳島県生まれ。小学2年で体操競技をはじめ、鳴門高校時代にインターハイ2連覇を達成。高校3年時、90年のアジア大会で初の代表入りを果たす。日本体育大学に進学後、92年のバルセロナ五輪に出場し、団体銅メダルに貢献した。93年の全日本選手権で個人総合初優勝。95年には2度目の優勝を果たした。同年の世界選手権では団体、鉄棒、あん馬でいずれも銀メダルを獲得。96年のアトランタ五輪にも出場した。2000年に現役を引退。指導者研修のための米国留学を経て、03年から日体大コーチとなり、内村航平をはじめとした数々のオリンピアンを指導した。

☆プレゼント☆
 畠田監督の直筆サイン色紙をプレゼント致します。ご希望の方はより、本文の最初に「畠田好章監督のサイン希望」と明記の上、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)、この記事や当サイトへの感想などがあれば、お書き添えの上、送信してください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締め切りは2014年7月31日(木)迄です。たくさんのご応募お待ちしております。



(文・写真/杉浦泰介)


◎バックナンバーはこちらから