沢村賞を2度も受賞しながら肩の故障に泣き、6年間のブランクの後、昨季限りで福岡ソフトバンクを退団した斉藤和巳に「一番やり甲斐のあったバッターは?」と問うと、間髪入れずに「小笠原さんですね」という答えが返ってきた。
 このオフ、巨人を退団し、今季から中日のユニホームを着る小笠原道大のことである。


 斉藤は続けた。
「あれは2003年のことです。東京ドームでの日本ハム戦。1球目、僕は外のカーブでストライクをとりにいった。僕にとっては完璧なボールでした。
 ところが小笠原さん、体を泳がせることなくグッと踏みとどまって、このカーブをレフトスタンドにまで運んだ。“いや、この人スゴイ!”とびっくりしました。初球から打つ球じゃないですよ。狙っていたのか体が勝手に反応したのか知りませんが、打たれたホームランの中でも、一番印象に残っています」

 全盛期の小笠原は、それこそ手が付けられなかった。3割、30本塁打、100打点の常連で、日本ハム時代には首位打者に2度(02、03年)、ホームラン王と打点王に1度(ともに06年)ずつ輝いている。

 07年にFA権を行使して巨人に移籍してからも4年連続で30本以上のホームランを記録するなど、その打棒は衰え知らずだった。

 ところが、だ。11年からの3年間は快音がピタリと止んだ。この3年間で記録したホームランは、わずかに6本。11年と言えばNPBが低反発の統一球を導入した年でもあり、それが「不振の最大の原因」と見なされた。

 それについて本人は「一概には言えない」と言葉を濁しているが、プロは結果が全ての世界。統一球の導入が不振の引き金になったことは否めまい。

 それだけに40歳で迎えるシーズンは、文字どおり小笠原にとっては「勝負の年」となる。もう失うものはない。落合博満GMの下、巻き返しを狙う中日は“ガッツの意地”を示す上で最高の球団に違いない。

<この原稿は2013年12月23日号『週刊大衆』に掲載された原稿を一部再構成したものです>


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