今春、日本陸上界において、前人未到の大記録を2度もうちたてた男がいる。十種競技の右代啓祐だ。4月に和歌山で開催された日本選抜陸上和歌山大会では、自身が持つ日本記録を70点更新する8143点をマーク。さらに右代は、6月に長野で行なわれた日本選手権混成で8308点を叩き出した。彼が日本新を出したのは実に3年ぶりのことだ。それも短期間に立て続けの記録更新である。周囲が驚いたのも無理はない。27歳の今、なぜ右代は進化し始めたのか――。きっかけは、2010年から右代の専属トレーナーを務める中西靖にあった。
「世界との差は、埋められないほど大きいとは思わなかった。いつかはメダルも不可能ではない」
 初めて出場した世界選手権(韓国・大邱)後、右代はこう語っている。しかし、この時の結果は20位。翌年のロンドン五輪でも20位と、周囲から見れば、世界との距離ははるかに遠いと考えるのが普通だろう。だが、実は大邱、ロンドンと帯同した中西もまた、右代同様に世界との差をそれほど感じてはいなかったという。

「右代は身長196センチ、体重95キロと、外国人選手にも決してひけをとらない体格をしています。トップ選手の中には右代よりも小さな選手だっているんです。フォームを見ても、外国人選手の方がきれいかというと決してそうではない。パワーもスタミナも、十分に世界と渡り合えるだけのものはあるはずなのに、なぜか記録では差が開いてしまう。国際大会に行くたびに、2人でいつも『なぜなんだろう、何が違うんだろう』と不思議に思っていたんです」
 その答えが見つからないまま、ロンドン五輪から1年が過ぎた。その間、右代は伸び悩んでいた。

 “鍛える”よりも“使える”

 事態が好転したのは、シーズンオフに入ってからだった。昨年末、中西は自らの身体を鍛えようと、近所にあるフィットネスジム「ジョイフルタイム西八王子」に通い始めた。そこには中西がかねてから探し求めていた「リアクションレジスタンス」というマシンが備わっていたのだ。

「以前からずっと、身体を効率的に動かすことのできる筋肉をつくるにはどうすればいいのかと悩んでいたんです。いろいろと調べて知ったのが『リアクションレジスタンス』。身体への負荷をどこで、どんな角度でかければいいかを計算して鍛えることのできるマシンなんです。でも、このマシンを備えているジムがなかなか見つからなかった。そしたら、昨年末に自分の治療院に近いジョイフルタイムに『リアクションレジスタンス』があることを知りました」

 実は、これには右代のことにも関係していた。
「世界のトップ選手たちとの差はどこにあるんだろう、とずっと考えてきた中で、『もう、これしかないだろう』と思ったのが、身体の使い方だったんです。確かに右代は身体を鍛えているし、持っているパワーそのものは一流なんです。でも、それをうまく使えていないのではないかと。よく『使える筋肉』『使えない筋肉』という言葉を耳にしますが、実際どういう違いなんだろうな、と思ったんです。それでもともと興味を持っていたこともあって、まずは自分がやってみようかなと思ったんです」

 ジムに通い始めてわかったのは、重要なのはいかに身体が楽な状態でパワーを出すことができるか、ということだった。
「例えばダンベルを持ち上げる時、腕だけをトレーニングして、そこの力だけで持ち上げようとすると、腕に相当な負担がかかる。でも、同じ重さのものを持ち上げるにも、下半身や腹筋、背筋と全身を使って持ち上げると、楽に持ち上げることができるんです」
 いかに全身を意識した身体の使い方ができるか。その重要性を自ら体験した中西は、早速、右代にも勧めた。

 すると、そのジムのオーナー山崎誠二が紹介してくれたのが、大阪府にある「スポーツクラブトライ」の中川隆だった。中川は、体幹理論を専門とするトレーナーだ。右代は、中川から3日で18時間にも及ぶ“講義”を受けたという。右代の身体が変化し始めたのは、それからだった。

 期待膨らむ日本人初の表彰台

 十種競技は2日間にわたって行なわれる。これまで右代は1日目を終えると、臀部やハムストリングなど、下半身に疲労が蓄積されていた。そのため、筋肉がつることも少なくなかった。一方、海外のトップ選手は疲れる様子はほとんどないのだという。
「例えば、1日目の最終種目の400メートルを終えた後、右代は息があがって、その場でぐったりとしてしまうんです。ところが、海外の選手はゴールしたら、そのままスタスタと歩いて引き上げていくんです。『本当に走ったの?』と思ってしまうくらい、疲れた様子がない。練習量では負けていないはずなのに、なんでなんだろうといつも不思議に思っていました」

 だが、今春の日本選抜陸上和歌山大会や日本選手権、中西は右代の変化に気づいていた。
「いつもなら種目をこなすたびに、どんどん疲労が積み重なって、身体のどこかに痛みが出てくるんです。ところが、今回はその痛みが出づらくなっていましたね。筋肉がつることも激減しましたし、2日目に残る疲労も少なくなっていた。全身を使って、楽にパワーを出すことができていた証拠だと思います」

 十種競技において「8308点」という得点が、どれだけ価値ある記録なのかは、次の中西の言葉によく表れている。
「男子100メートルで日本人選手が10秒を切った記録に匹敵するくらいの得点だと思います」
 2年後に迫るリオデジャネイロ五輪でのメダルも夢ではないということだ。

「彼は今、ようやくスタートを切ったんです。だからまだまだ伸びしろは十分にある。これからどこまで伸びるのか、本当に楽しみです」
 右代の身体を最も知る人物の言葉だけに、期待が膨らむ――。

(後編につづく)

中西靖(なかにし・おさむ)
1982年7月4日、東京都生まれ。カイロプラクター。八王子高校出身。RMIT大学日本校カイロプラクティック学科卒業後、ハプティカイロプラクティック(東京都)に勤務し、2年後に独立。「西八王子カイロプラクティック」を開業する。2010年より十種競技日本代表の右代啓祐選手の専属トレーナーとなる。現在はそのほか、八王子高校陸上部チームトレーナー、同校野球部コンディショニングトレーナーも務める。
西八王子カイロプラクティックHP

(斎藤寿子)
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