「今はみんながオリンピックでのメダル獲得を“無理”だと思っているかもしれませんが、自分自身はそうは思わない。自分が歴史を作り、誰もが敵わないと思うような大記録を打ち立ててやりたい」。今春、日本新記録を連発し、好調を持続している十種競技・右代啓祐は五輪という大舞台でのメダル獲得に自信を覗かせる。元々、右代はハイジャンパー(走り高跳び選手)だった。その彼が混成競技への転向を決めたのは、高校2年の冬である。“デカスリート”(十種競技選手)右代啓祐の誕生には、ある人物が深く関わっていた。


 2002年の春に札幌第一高校に入学した右代は、中学時代同様に走り高跳びを専門としていた。しかし、1年の秋に行われる新人戦には部内の選考会で3位に終わり、上位2名までが出場できる枠から漏れたのである。肩を落とす彼に、札幌第一高陸上部の大町和敏監督はやり投げへの挑戦を命じた。

 その理由を大町はこう語る。「実は、右代が学校の中庭でキャッチボールをしているのを、たまたま見たことがあったんです。その時に、ものすごい剛速球を投げていたんです」。その強肩をやり投げで生かせると思ったことに加え、「やり投げと走り高跳びは、全くの異種目に見えますが、実は共通している部分もあるんです。やり投げの投げる寸前の動作が、走り高跳びの踏み切りと関連しているんです。そのステップを彼はまだ、うまくできていなかった」と、ハイジャンパーとしての課題克服の副次効果も期待したのである。

 当時、右代は自分の身長191センチより低いバーもクリアできずにいた。ところが、やり投げを基礎から学び、練習を積むことで走り高跳びの記録が飛躍的に伸びたのだ。自己ベストを10センチほど更新し、最終的には新人戦に出場した2人よりも跳べるようになったという。一方のやり投げの方も新人戦で優勝するほどの才能を見せた。今ではやり投げは、右代が十種競技で得点を稼ぐ得意種目となっている。

 2年の夏には、走り高跳びとやり投げで全国高校総合体育大会(インターハイ)に出場した。いずれも予選落ちだったが、「夢のまた夢の舞台」と思っていた全国大会に足を踏み入れるまでに進化していた。

 迷った末の混成競技転向

 ここまでは大町の目論見通りだった。だが、彼の狙いはそれだけではなかった。2種目で道内トップクラスになった右代には、それを武器に混成競技(高校生は八種)へと挑戦して欲しいと考えていたのだ。その年の10月下旬、大町は右代を呼び出し、来季に向けて混成競技転向を提案した。しかし、右代の答えは「NO」だった。彼の本音は「高3で種目を変える勇気なんてなかった」からだ。それでも大町は諦めなかった。

 翌月の北海道陸上競技協会の強化合宿で、大町は“ある手”を打った。
「右代のやり投げは北海道で1番、高跳びは2番くらいだったので、当然、北海道陸協の強化選手になっていたんです。ただ私が右代を混成競技に導きたいものだから、強化コーチを巻き込んで、右代には『混成の強化で呼んだんだぞ』と強化委員長に言って頂いたんですよ」

 大町の作戦は成功する。合宿終了後、右代は転向を決意したのだ。大町の“根回し”により、強化コーチから勧められたことももちろん理由にあったが、最後の一押しは恩師の存在だった。「大町先生に指導してもらいたくて、札幌第一高校に入学しました。とても信頼していた先生だったので、最後も“信じよう”という気持ちで決めました」。こうして右代は混成競技の世界に足を踏み入れることとなった。

 そして公式戦デビューとなった3年夏のインターハイの札幌支部予選では、5606点の北海道高校新をいきなりマークした。続く北海道大会でも5570点の大会記録を更新し、インターハイ行きを決めた。そして、島根で行われたインターハイでは5762点と記録をさらに伸ばし、準優勝となった。やり投げと走り高跳びにも出場したが、2種目とも予選落ち。これを機に、右代自身の気持ちは完全に混成競技へと傾いていった。
「今までやり投げと走り高跳びでは必死にやってきたのにインターハイの表彰台に届くレベルにはなかった。それが八種を始めると、すぐに辿り着くことができた。“この種目で間違いないんだな”と思いましたね。それに終わった後の達成感がやり投げ、高跳びとはまた違って、すごく心地良かった。走ったり、投げたり、跳んだりと、“何でもできるのがカッコいいな”と思えるようになったんです」

 救われた恩師からの言葉

 デカスリート・右代啓祐の“生みの親”が大町だとすれば、“育ての親”は国士舘大学陸上競技部監督の岡田雅次である。大町が同大のOBということもあり、札幌第一高時代から国士舘大に何度か合宿で訪れていた。インターハイ準優勝の実績を持つ右代には、“無名”だった中学時代とは違い、各校からの誘いも少なくなかった。投擲種目などでオリンピアンも輩出している国士舘大。右代は「ここで強くなりたい」と同校を選んだ。

 右代は入学早々、日本ジュニア選手権で優勝したものの、それ以降は伸び悩んだ。この頃は1種目でもミスをすると、気落ちするような面が見受けられたという。大学2年の春に岡田は「オマエの目標はここなのか? こんな試合でいっぱいいっぱいになるな」と叱咤した。徐々に精神面も改善が見られると、結果も出るようになった。4年になると日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)で初優勝し、大学生の頂点に立った。

 大学を卒業し、大学院に進んだ右代。09年6月の日本選手権混成は、同年の世界選手権ベルリン大会の出場が懸かっていた。1日目を終え、2位につけていた。2日目も順調に得点を重ね、7種目目の円盤投げ終了時点でトップに立った。「過信していた自分もいました。“このまま優勝できるかもしれない”と安易な考えもあったと思います。そこで冷静になれなかった自分がいた……」。初の日本一、世界選手権出場が脳裡をかすめていた。

 ところが、迎えた8種目目の棒高跳びで大きな落とし穴が待っていた。バーの高さは、4メートル40。前年の日本インカレで4メートル60をクリアしている右代にとっては、跳べない高さではなかったはずだった。しかし、3回の試技で1度も成功できず、まさかの記録なし――。痛恨の0点。結局、優勝争いから脱落した右代は10位で競技を終えた。

 試合が終わると、右代は監督の岡田に報告をしに行った。「ダメでした」。右代は、岡田から厳しい声をかけられることを覚悟していた。だが、岡田は右代に背を向けたまま、こう言った。「オレは今回、悪いとは思わなかった。今日からがオマエのスタートだぞ」。岡田にしてみれば、力を尽くした選手に“自分を否定して欲しくない”という思いがあったのだ。そして、その言葉に右代は救われた。

「ただ失敗と捉えるよりも、これをどう変えていくかが大事なんだと、気付かされました。今でも何かつらいことがあったり、行き詰まったときに、この時の岡田監督の言葉を思い出します」

 新たにスタートを切った右代は、4カ月後に行われた日本選抜混成群馬大会で優勝すると、翌年の日本選手権混成を初制覇。同年11月、中国・広州でのアジア競技大会では、4位入賞を果たした。初の日本一と国際大会を経験したことで、“日本記録更新を更新し、日本人初の8000点越えは絶対できる”と自信をつけた。そして、それを証明するのに時間はかからなかった。実際、1年後の日本選手権混成で日本新記録の8073点を叩き出し、連覇達成した。2年前には届かなかった世界選手権への切符を手にしたのである。

「五輪に魔物はいなかった」

 そして迎えた8月の世界選手権大邱大会では、7639点で20位だった。そこで国際経験の乏しさを課題に感じた右代は、海外遠征を敢行し、国外の大会にも積極的に参加した。そして翌年の日本選手権混成で3連覇を達成し、ロンドン五輪の切符を手にした。日本人の出場は東京五輪以来、48年ぶりの快挙だった。

 既に世界選手権を経験したこともあって、五輪に対しても右代は“同じような感じかな”との印象を抱いていた。しかし、4年に1度の檜舞台は別世界だったという。
「まるでお祭りのような雰囲気でした。1日目のラストの400メートルも全然疲れを感じず、“終わらないで”という気持ちになったんです。観客も最後まで僕のことを応援してくれました。その瞬間がとても幸せでした」

 7842点で20位。順位は奇しくも世界選手権とまったく同じだったが、感じたものはまるで違っていた。大邱では圧倒され、一瞬で過ぎ去ったように感じたが、海外の経験も積んで臨んだロンドン五輪では、周囲を落ち着いて見渡すことができたからだ。

 大邱以上の結果は残せなかったが、気持ちは決して怯んでいなかった。五輪には魔物が棲んでいる――。大舞台の雰囲気に飲み込まれるアスリートは数多くいる。だが右代は違った。「魔物も何もいなかった。本当に楽しくてしょうがなかった」。そう言って、彼はロンドンでの経験を振り返った。

 右代が何よりもこの大舞台を楽しんでいたことはレース後のインタビューからも明らかだった。1日目を終えた第一声は「楽しかった!」との言葉と満面の笑顔。2日目の8種目目の棒高跳びでは会場からの「USHIRO」コールを背に、自己ベストタイ4メートル90を跳んだ。全種目を終えても、表情は晴れ晴れとしていた。その笑顔が曇ることは最後までなかった。「人種や国籍が違っても、ひとりのスポーツ選手、十種競技の選手として見てくれている。その喜びを感じましたね」。右代は五輪の魔物に憑りつかれるのではなく、自身が五輪という大舞台の虜となった。

 今年10月には韓国・仁川でアジア競技大会が行われる。1年後の世界選手権北京大会、2年後のリオデジャネイロ五輪までの足がかりにするべく、右代は「今年は金メダルを獲りに行く年」と表彰台の真ん中を狙う。現在も国士舘大を練習拠点に置いている彼を指導する岡田も「オリンピックでは日本を代表するのではなく、アジアを代表して出場して欲しい。そのためにはアジアでトップにならなければいけない」と発破をかける。今春、五輪で入賞圏内と言える8300点台を出したとはいえ、世界の“キング・オブ・アスリート”と右代との差は依然としてある。まずメダルを狙う位置につけるために最低でも200点以上の上積みは必要だろう。

 ドラマの主役になるために

 右代は混成競技の魅力をこう語る。「選手たちの友情だったり、試合中にいろいろなドラマがあるんです。10種目を選手みんなでつくり上げる。最終種目の1500メートルも体力的に相当きついのですが、終わった後、みんなで一緒に肩を組んで写真撮影をするんです。レース中でも自分や仲間にアクシデントがあれば、助け合う時もあります。互いにアドバイスをし合ったり、応援もする。ライバルですが、切磋琢磨して試合を作り上げている感じがあって、そういうところが素晴らしいと思います」

 日本記録を出した時の右代もまた、“仲間”に支えられた。ラストの1500メートルでは「右代さん、ここ大事ですよ!」と横で走る選手からゲキが飛んだ。こうしたアシストが力を生み出すのだという。

 右代自身もサポート役に回ったことがある。09年の日本選手権混成の1500メートルでペースメーカーのような役割を担ったのだ。自らの優勝がなくなり、世界選手権への出場も絶望的。だがトップに立っていた同学年の池田大介が派遣標準Bを突破できそうだった。「自分は世界の舞台には立てないけど、その舞台に立てそうなライバルがいる。悔しいけど、今回は負け。だからオレが引っ張ろう」。右代の頑張りもあり、池田は見事にベルリン行きの切符を手にした。

 十種競技の全種目終了後に全員でスタジアムをウイニングランする姿は、他の競技ではなかなか見られない光景だ。いわば陸上を舞台にしたカーテンコール。2日間戦い抜いた選手たちが各々を称え合う。それを盛り上げる観客やスタッフも物語の“共演者”である。その輪の中心にメダルを掛けた右代啓祐がいる――。そんなフィナーレを2年後のリオで見られると私は期待している。

(おわり)
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右代啓祐(うしろ・けいすけ)プロフィール>
 1986年7月24日、北海道生まれ。中学1年から陸上競技を始め、主に走り高跳びを専門とする。高校3年で混成競技(八種)に転向し、高校3年時には同種目で全国高校総合体育大会(インターハイ)2位に入る。国士舘大学、大学院を経てスズキ浜松アスリートクラブ入り。10年の日本選手権十種競技で初優勝すると、同年のアジア大会では4位に入った。11年には日本選手権で8073点の日本記録を樹立。日本人で初めて8000点を超える快挙だった。同年の世界選手権大邱大会に出場すると、翌年のロンドン五輪に同種目日本人48年ぶりの出場を果たす。昨年の世界選手権モスクワ大会を経験。今年4月に日本選抜陸上和歌山大会で3年ぶりに日本記録を更新すると、6月の日本選手権では更に記録を塗り替える8308点と高得点を叩き出した。身長196センチの恵まれた体躯からのパワー系の種目を得意とする。
>>ブログ『どさんこデカスリート右代啓祐の「キング・オブ・アスリートへの道」』

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(文・写真/杉浦泰介)

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