ブラジルのW杯で、あらためてGKというポジションの重要性に注目が集まるようになったのは、このポジションの経験者として喜ばしい限りである。おそらくは全世界で、優れたGKを育成するためのプログラムやアイデアが編み出されていくに違いない。
 ほんの十数年前まで、国によってGKは嘲笑の的でさえあった。たとえばブラジル。GKをやるのは変人でありサッカーが下手なやつ。いまも伝説として語り継がれているペレたちのセレソンが、お粗末なGKでも世界一になれてしまったことが、かの国に於ける守護神の立場をずいぶんと低いものにしてしまっていた。

 ブラジルに限らず、ラテンの国ではおしなべてGKの立場は低かった。ゆえに、W杯に出てくるような国でも、ドイツやイタリア、イングランドであれば3部リーグでもいないような低レベルのGKがいた。特にハイボールの処理に関しては、信じられないほど下手くそなGKが珍しくなかった。

 GKを始めたばかりの人間でも、シュートに反応することはできる。求められるのは動体視力であり、反射神経――つまり誰でも持っているものだからだ。

 ハイボールの処理は違う。もちろんキャッチする技術も必要だが、それ以上に求められるのは徹底した反復練習でしか獲得できない、判断の基準である。どのエリアに、どの程度の強さ、高さなら出るのか。キャッチするのか。パンチするのか。ドイツのGK練習では、そのあたりを徹底して仕込む。必要なのは自由な発想などではなく、職人的な技術と判断なのである。

 かつてのラテンの国では、GKの練習もフィールドプレーヤー的な発想から抜けきれていなかった。よく言えば自由。悪く言えば無教育。個人の自由を重んじる練習は、フィールドプレーヤーであれば芸術性を育てることもあるが、GKに関しては万害あって0.1利すらない。ブラジルやアルゼンチン、フランス、スペインといった国々のGKに、高いボールの処理が不安定な選手が多いのは当然だった。

 だが、20世紀終盤から選手の移籍が活発化したことで、ラテンの国々もGKの重要性と正しい練習法を知った。マラドーナの誕生は神に祈るしかないが、一定レベルのGKは環境によって生み出すことができる。結果、ラテンからは次々と好GKが生まれるようになってきた。

 最近になって思う。近年いいGKを生み出す国は、おしなべて育成に力を入れ、かつ成功している国ばかりである。一方で、GK製造所の名をほしいままにしていたイングランドからはGKが現れなくなり、案の定、代表チームの成績もパッとしなくなってきた。ドイツなどと比べれば、その差は一目瞭然である。

 さて、日本は?

<この原稿は14年8月21日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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