石田太志(プロフットバッグプレーヤー)<前編>「日本フットバッグ界のパイオニア」
「フットバッグ」(Footbag)というスポーツをご存知だろうか。5センチほどの大きさ(規程は直径2.54センチ〜6.35センチ、重量20〜70グラム)でお手玉のように柔らかいバッグ(ボール)を足で蹴るスポーツである。バレーボールのようにネットを挟んでバッグを蹴りあう「フットバッグ・ネット」、 連続で蹴り続ける回数・時間を競う「フットバッグ・コンセキュティブ」、華麗な足技を競う「フットバッグ・フリースタイル」など、様々な競技がある。そのフットバッグの世界大会「第35回IFPA World Footbag Championships」が今年8月、フランス・パリで開催され、ひとりの日本人が「シュレッド30」(30秒間でどれだけ高度かつ色々な技を繰り出せるかを競う)という種目で王者に輝いた。男の名は石田太志。世界で唯一のプロフットバッグプレーヤーとして、大会出場などのほかに、競技の普及活動も行う日本フットバッグ界のパイオニアである。
まずはフットバッグの歴史を説明しておこう。フットバッグの誕生は1972年にまで遡る。米国・オレゴン州にある病院で、マイク・マーシャルという医師がヒザを手術した患者のリハビリのために「足でお手玉のように遊んでみてはどうか」と勧めた。これがフットバッグ誕生のきっかけだ。当初は靴下の中に豆を詰めた手製のバッグを使い、マーシャルと患者、彼らの仲間内で遊ぶ程度だったという。しかし、バッグを改良していくとともにさまざまな技が開発され、競技としての側面も確立されていった。現在の競技者人口は欧米を中心に約600万人といわれている。
フットボーラーからフットバガーへ転身
石田はどのようにしてフットバッグと出合ったのか。彼は小学校から高校までサッカーに打ち込んだ。高校は神奈川県内でベスト4に入る実力を持つ強豪・旭高校でプレーし、大学進学後も体育会サッカー部で競技を続けるつもりだった。しかし、入学した大学のサッカー部はそれまで石田が身を置いていた環境とは違っていた。練習に参加して「高校時代に比べると物足りない」と感じた石田は、サッカー部に入部するかどうかを決めかねていた。
そんな入学してから間もない4月、石田は何気なく地元のスポーツショップに立ち寄った。そこで彼はある映像を目にした。店頭でフットバッグのプロモーションビデオ(PV)が流れていたのだ。ディスプレイにはバッグを操り、華麗な技を繰り出すプレーヤーが映っていた。当時、フットバッグを見たことも聞いたこともなかった石田は「なんだこれは!?」と衝撃を受け、気づくとその場から離れられなくなっていた。
「第一印象はサッカーのリフティングのような動きだな、というものでした。それに加え、PVがストリートダンスやスケートボードの映像のような感じですごく格好良かったんです。もともとストリートカルチャーに興味があったのですが、僕はリズム感に自信がなかったし、スケボーは危ないかもしれないという先入観があったりして実際にやるまでには至らなかった。しかし、フットバッグはサッカーのリフティングのような動きだったので、“これならできるかもしれない”と思いました」
気づけば1時間ほどが経っていた。店員に競技のことを聞いても、わかったのは「米国で生まれた競技」ということだけだった。それでも、石田は新たに出合ったスポーツへの興味を抑えられなかった。その場で販売されていたバッグを購入し、帰宅後、すぐにバッグを蹴ってみた。だがビデオで見たような大技ができるはずもなく、とりあえず、サッカーと同じようにリフティングをしてみた。石田は「ただ蹴り続けるリフティングなら、サッカー経験者の自分ならできるだろう」と考えていた。しかし、何度やっても、その日は3回しか続けられなかった。
「本当はバッグを足に“乗せる”という感覚が重要なんですが、スポーツショップで目にしたビデオではバッグを蹴っているように見えたんです」
何日か練習を続けたものの、なかなかコツをつかめない。1週間ほど、バッグを蹴らない時期もあったが、友人との話のネタになると思い、バッグはいつもポケットに入れて持ち歩いていた。ある日、小学校時代のサッカークラブの同窓会があり、石田は何気なく友人たちに「フットバッグって知ってる?」と言ってバッグを見せた。
「見たことある!」
意外にも何人かが反応した。当時、フットバッグがスポーツショップやデパートなどで特集コーナーなどが展開されており、石田の友人もそれを目にしていたのだ。
「みんなでやってみようか」と盛り上がり、その後、3〜4人で練習するようになった。海外のフットバッグプレーヤーが配信していたwebサイトの動画を真似した。また、石田がスポーツショップで見たプロモーションビデオも購入。自分たちのプレー動画も撮影し、それと世界のトップ選手の動きを比べながら友人たちと意見を言い合った。
「ビデオの映像はコマ送りで見ていました。というのも、動きがスローモーションでもわからないからです。また、同じ技ができたにも関わらず、何か違う。コマ送りして見てみると、足の動かし方のみならず、手がどの位置にあるか、体の向きはどうなっているかなども重要だと気付きました」
(写真:サッカーボール5号球<左>とフットバッグの比較)
石田が最初に習得したのは、「ミラージュ」という技だった。ミラージュは足の甲にセットしたバッグを、逆足で内から外にまたいで、セットした足でストールする。競技において、基本となる技のひとつだ。石田は3日かけてこれを成功させた。
「成功した時の快感がすごく大きかったです。ただ、ひとりで練習していたので、喜びを分かち合える人がいなかったのが残念でしたね(笑)」
ひとつの技を成功させると次の技、また成功させると更に難易度の高い技というふうに、石田はフットバッグの練習に明け暮れた。
世界大会で体感したトップ選手のリズム
競技を始めて3カ月が経った03年7月、石田は「第1回ジャパンフットバッグチャンピオンシップ」(JFC)に出場した。といっても、優勝を狙っていたわけではない。自分より長くフットバッグを経験している選手との差はどれくらいかを確認するのが目的だった。
(写真:フットサル・Fリーグの試合会場でパフォーマンスする石田)
石田が出場したのは「ビッグ1トリック」(規程回数内に行った技の最も高い難易度を競う)と、シュレッド30に並んで世界大会で主流な「フリースタイル」(決められた時間内で音楽に合わせて様々な技を繰り出し、 そのルーティンの難易度、美しさ、オリジナリティ、音楽との融合など、フットバッグの技術を総合的に競う)。石田はビッグ1トリックでは6位に入ったものの、フリースタイルは予選落ちした。
「トップ選手は1つ1つの技の難易度が高く、簡単な技のフォームもキレイでした。一方で僕のパフォーマンスは雑でした。要因は急いでしまっていたこと、そして体に力みがあったことです。僕はバッグを空中に上げて、足で受けたらすぐまた空中に上げていた。急ぐとバッグを足の真芯で受けられず、ドロップ(落下)させてしまったり、ミスにつながる。また力みがあるとうまく体を動かせず、落ちてくるバッグをうまく拾えないんです」
石田は上位の選手との差を痛感した。しかし、彼は翌04年の第2回JFCのフリースタイルで、6位にジャンプアップする。前回大会から1年、彼にどのような変化が起こったのか。
「まず練習量を大幅に増やしたことがひとつですね。海外のトップ選手の動画も暇さえあれば見ていました。そして、大きかったのが第25回WFC(カナダ・モントリオール)に出場したことです」
WFCは出場条件が設定されておらず、現地でエントリーすれば誰でも大会に出場できる。石田は前年のJFCと同様に、海外のトップ選手のパフォーマンスを間近で感じ、普段の練習方法などを聞くことが目的だった。そこで彼は2つの収穫を得た。ひとつはリズムである。
「海外のうまい選手と同じ空間でパフォーマンスしていると、不思議といいリズムになるんです。周囲のゆったりとしたペースに自分もつられて、いつもの雑さが少なくなっていました」
第2回JFCのフリースタイルで6位に入った背景には、世界のトップ選手のリズムを体感したことが大きく影響していたのだ。
WFC出場で得たもうひとつの収穫は、「アドバイスを聞けなかったこと」だったという。いったい、どういうことなのか。
「自分のプレーを見せて、何が悪いのかを聞こうと考えていたのですが、当時はまったく英語を話せなかったので、アドバイスをもらえなかったんです(苦笑)。ただ、おかげで英語習得の必要性を強く感じることができました。WFCのルール説明を聞くにも、海外の選手とコミュニケーションをとるにも英語は必須ですからね」
この時にアドバイスを聞けなかったことが、後のカナダ留学を決断する理由のひとつとなった。
結実したカナダでの武者修行
迎えた05年の第3回JFCのフリースタイルで、石田はまたも6位となった。前年よりも上位を狙っていただけにショックは小さくなかった。石田は上位陣と自分との間に「絶対的な差」を感じていた。それは安定感と技の難易度である。フリースタイルは2分間のルーティンでバッグをドロップ(落下)させるたびに減点される。ドロップ数の多少は、順位を判断する上で最も重要かつ分かりやすい要素である。少なければ少ないほど演技の印象が良くなるからだ。特に技術点や芸術点で拮抗していた場合、ドロップ数の少ない競技者が上位になる可能性が高い。フリースタイルにおいて最も確実に高い評価を得る方法はドロップしないことなのだ。石田は1回のルーティンで4〜5回、ドロップすることがあり、一方で上位の選手はドロップ数が圧倒的に少なかった。
(写真:足の内側にバッグを乗せる「インサイドストール」)
また、技の難易度も上位陣に比べると、石田の繰り出した技は獲得できる点数が低かった。彼は「当時はたとえ僕がベストなルーティンをしたとしても、1位にはなれていなかったでしょう」と分析した。
日本のトップ選手との差を埋めるため、石田はある決断を下した。カナダへの留学である。
「カナダにはレベルの高い選手が多くいます。ですから、カナダに行けば04年のWFCで感じたトップ選手のゆったりとしたリズムを四六時中、感じられます。そしてカナダ人選手と会話することで英語も習得できる。僕にとってまさに一石二鳥だと考えたんです」
こうして06年1月、石田は大学を1年間休学してカナダへと渡った。
カナダでは基礎を徹底的に鍛え直した。
「カナダの選手は基礎がしっかりしているんです。もちろん難しい技もやっていたのですが、そのベースにあるのは基礎。フットバッグの技には段階があって、基礎となるのはレベル1〜2の技です。基礎レベルの技ができないと、その先の高いレベルの技を習得するのは難しい。たとえばミラージュはレベル2の技で、ミラージュの動きが組み込まれた技がレベル3にあります。ということは、まずミラージュをマスターしないと、レベル3の技はできないんです。基礎の延長線上に難易度の高い技があるんです」
またカナダの選手には、やはり力みがなかった。2分間のフリースタイルでは、終盤になるにつれて疲れがたまり、ミスにつながることがある。ゆえに、リラックスした状態で技を繰り出せるかが重要になる。こうした基礎を身に付けることは、常に安定した状態でパフォーマンスを続ける上でも重要だった。
同年10月上旬、石田はカナダでの修行を終えて日本に帰国した。修行の成果は同月に行われた第4回JFCで早くも表れた。過去に目立っていたドロップ数は激減し、徹底された基礎の上に成り立つ確実性のある技が、審査員から高い評価を得た。競技開始から3年、ついに石田は日本フットバッグ界の頂点に立った。
07年には04年以来、2度目のWFCに出場。 “日本王者”の肩書きを得た石田は、言う間でもなく同大会で上位進出を狙っていた。ところが、である。満を持して臨んだ大会で、石田は21位という結果に終わった。世界のトップ選手との間には、まだ埋めがたい大きな差があった。
(後編につづく)
<石田太志(いしだ・たいし)>
1984年4月5日、神奈川県生まれ。2014年フットバッグの世界大会である「World Footbag Championships 2014」にてアジア人初の世界一に輝いた日本を代表するフットバッグプレーヤー。小学校から高校までサッカーを続け、大学1年時にフットバッグに出合う。大学在学中の06年にはカナダに1年間、08年にはヨーロッパに渡り、フットバッグの技術を磨きながら海外の多くの大会に出場し入賞。06年10月にはジャパン・フットバッグ・チャンピオンシップ(JFC)のフリースタイルで初優勝した。大学を卒業し、08年から株式会社コムデギャルソンに勤務。しかし、どうしてもフットバッグで生活していく夢を捨てられず、11年8月に会社を退職し、プロフットバッグプレーヤーに転向。現在は世界唯一のプロフットバッグプレーヤーとしてメディア出演やパフォーマンス活動も精力的に行い、またフットバッグを使用したサッカースキルアッププログラムや他スポーツでの体幹や股関節トレーニング、高齢者の方への介護予防としてのトレーニングも各地で行っている。日本サッカー協会の夢先生の資格も保有しており、全国の小中学校で夢について教えている。JFC優勝通算3回(06年、10年、12年)。
>>石田太志オフィシャルサイト
>>夢先生オフィシャルサイト
>>日本フットバッグ協会
(文・写真/鈴木友多)
(このコーナーでは、当サイトのスタッフライターがおすすめするスポーツ界の“新星”を紹介していきます。どうぞご期待ください)
まずはフットバッグの歴史を説明しておこう。フットバッグの誕生は1972年にまで遡る。米国・オレゴン州にある病院で、マイク・マーシャルという医師がヒザを手術した患者のリハビリのために「足でお手玉のように遊んでみてはどうか」と勧めた。これがフットバッグ誕生のきっかけだ。当初は靴下の中に豆を詰めた手製のバッグを使い、マーシャルと患者、彼らの仲間内で遊ぶ程度だったという。しかし、バッグを改良していくとともにさまざまな技が開発され、競技としての側面も確立されていった。現在の競技者人口は欧米を中心に約600万人といわれている。
フットボーラーからフットバガーへ転身
石田はどのようにしてフットバッグと出合ったのか。彼は小学校から高校までサッカーに打ち込んだ。高校は神奈川県内でベスト4に入る実力を持つ強豪・旭高校でプレーし、大学進学後も体育会サッカー部で競技を続けるつもりだった。しかし、入学した大学のサッカー部はそれまで石田が身を置いていた環境とは違っていた。練習に参加して「高校時代に比べると物足りない」と感じた石田は、サッカー部に入部するかどうかを決めかねていた。
そんな入学してから間もない4月、石田は何気なく地元のスポーツショップに立ち寄った。そこで彼はある映像を目にした。店頭でフットバッグのプロモーションビデオ(PV)が流れていたのだ。ディスプレイにはバッグを操り、華麗な技を繰り出すプレーヤーが映っていた。当時、フットバッグを見たことも聞いたこともなかった石田は「なんだこれは!?」と衝撃を受け、気づくとその場から離れられなくなっていた。
「第一印象はサッカーのリフティングのような動きだな、というものでした。それに加え、PVがストリートダンスやスケートボードの映像のような感じですごく格好良かったんです。もともとストリートカルチャーに興味があったのですが、僕はリズム感に自信がなかったし、スケボーは危ないかもしれないという先入観があったりして実際にやるまでには至らなかった。しかし、フットバッグはサッカーのリフティングのような動きだったので、“これならできるかもしれない”と思いました」
気づけば1時間ほどが経っていた。店員に競技のことを聞いても、わかったのは「米国で生まれた競技」ということだけだった。それでも、石田は新たに出合ったスポーツへの興味を抑えられなかった。その場で販売されていたバッグを購入し、帰宅後、すぐにバッグを蹴ってみた。だがビデオで見たような大技ができるはずもなく、とりあえず、サッカーと同じようにリフティングをしてみた。石田は「ただ蹴り続けるリフティングなら、サッカー経験者の自分ならできるだろう」と考えていた。しかし、何度やっても、その日は3回しか続けられなかった。
「本当はバッグを足に“乗せる”という感覚が重要なんですが、スポーツショップで目にしたビデオではバッグを蹴っているように見えたんです」
何日か練習を続けたものの、なかなかコツをつかめない。1週間ほど、バッグを蹴らない時期もあったが、友人との話のネタになると思い、バッグはいつもポケットに入れて持ち歩いていた。ある日、小学校時代のサッカークラブの同窓会があり、石田は何気なく友人たちに「フットバッグって知ってる?」と言ってバッグを見せた。
「見たことある!」
意外にも何人かが反応した。当時、フットバッグがスポーツショップやデパートなどで特集コーナーなどが展開されており、石田の友人もそれを目にしていたのだ。
「みんなでやってみようか」と盛り上がり、その後、3〜4人で練習するようになった。海外のフットバッグプレーヤーが配信していたwebサイトの動画を真似した。また、石田がスポーツショップで見たプロモーションビデオも購入。自分たちのプレー動画も撮影し、それと世界のトップ選手の動きを比べながら友人たちと意見を言い合った。
「ビデオの映像はコマ送りで見ていました。というのも、動きがスローモーションでもわからないからです。また、同じ技ができたにも関わらず、何か違う。コマ送りして見てみると、足の動かし方のみならず、手がどの位置にあるか、体の向きはどうなっているかなども重要だと気付きました」
(写真:サッカーボール5号球<左>とフットバッグの比較)
石田が最初に習得したのは、「ミラージュ」という技だった。ミラージュは足の甲にセットしたバッグを、逆足で内から外にまたいで、セットした足でストールする。競技において、基本となる技のひとつだ。石田は3日かけてこれを成功させた。
「成功した時の快感がすごく大きかったです。ただ、ひとりで練習していたので、喜びを分かち合える人がいなかったのが残念でしたね(笑)」
ひとつの技を成功させると次の技、また成功させると更に難易度の高い技というふうに、石田はフットバッグの練習に明け暮れた。
世界大会で体感したトップ選手のリズム
競技を始めて3カ月が経った03年7月、石田は「第1回ジャパンフットバッグチャンピオンシップ」(JFC)に出場した。といっても、優勝を狙っていたわけではない。自分より長くフットバッグを経験している選手との差はどれくらいかを確認するのが目的だった。
(写真:フットサル・Fリーグの試合会場でパフォーマンスする石田)
石田が出場したのは「ビッグ1トリック」(規程回数内に行った技の最も高い難易度を競う)と、シュレッド30に並んで世界大会で主流な「フリースタイル」(決められた時間内で音楽に合わせて様々な技を繰り出し、 そのルーティンの難易度、美しさ、オリジナリティ、音楽との融合など、フットバッグの技術を総合的に競う)。石田はビッグ1トリックでは6位に入ったものの、フリースタイルは予選落ちした。
「トップ選手は1つ1つの技の難易度が高く、簡単な技のフォームもキレイでした。一方で僕のパフォーマンスは雑でした。要因は急いでしまっていたこと、そして体に力みがあったことです。僕はバッグを空中に上げて、足で受けたらすぐまた空中に上げていた。急ぐとバッグを足の真芯で受けられず、ドロップ(落下)させてしまったり、ミスにつながる。また力みがあるとうまく体を動かせず、落ちてくるバッグをうまく拾えないんです」
石田は上位の選手との差を痛感した。しかし、彼は翌04年の第2回JFCのフリースタイルで、6位にジャンプアップする。前回大会から1年、彼にどのような変化が起こったのか。
「まず練習量を大幅に増やしたことがひとつですね。海外のトップ選手の動画も暇さえあれば見ていました。そして、大きかったのが第25回WFC(カナダ・モントリオール)に出場したことです」
WFCは出場条件が設定されておらず、現地でエントリーすれば誰でも大会に出場できる。石田は前年のJFCと同様に、海外のトップ選手のパフォーマンスを間近で感じ、普段の練習方法などを聞くことが目的だった。そこで彼は2つの収穫を得た。ひとつはリズムである。
「海外のうまい選手と同じ空間でパフォーマンスしていると、不思議といいリズムになるんです。周囲のゆったりとしたペースに自分もつられて、いつもの雑さが少なくなっていました」
第2回JFCのフリースタイルで6位に入った背景には、世界のトップ選手のリズムを体感したことが大きく影響していたのだ。
WFC出場で得たもうひとつの収穫は、「アドバイスを聞けなかったこと」だったという。いったい、どういうことなのか。
「自分のプレーを見せて、何が悪いのかを聞こうと考えていたのですが、当時はまったく英語を話せなかったので、アドバイスをもらえなかったんです(苦笑)。ただ、おかげで英語習得の必要性を強く感じることができました。WFCのルール説明を聞くにも、海外の選手とコミュニケーションをとるにも英語は必須ですからね」
この時にアドバイスを聞けなかったことが、後のカナダ留学を決断する理由のひとつとなった。
結実したカナダでの武者修行
迎えた05年の第3回JFCのフリースタイルで、石田はまたも6位となった。前年よりも上位を狙っていただけにショックは小さくなかった。石田は上位陣と自分との間に「絶対的な差」を感じていた。それは安定感と技の難易度である。フリースタイルは2分間のルーティンでバッグをドロップ(落下)させるたびに減点される。ドロップ数の多少は、順位を判断する上で最も重要かつ分かりやすい要素である。少なければ少ないほど演技の印象が良くなるからだ。特に技術点や芸術点で拮抗していた場合、ドロップ数の少ない競技者が上位になる可能性が高い。フリースタイルにおいて最も確実に高い評価を得る方法はドロップしないことなのだ。石田は1回のルーティンで4〜5回、ドロップすることがあり、一方で上位の選手はドロップ数が圧倒的に少なかった。
(写真:足の内側にバッグを乗せる「インサイドストール」)
また、技の難易度も上位陣に比べると、石田の繰り出した技は獲得できる点数が低かった。彼は「当時はたとえ僕がベストなルーティンをしたとしても、1位にはなれていなかったでしょう」と分析した。
日本のトップ選手との差を埋めるため、石田はある決断を下した。カナダへの留学である。
「カナダにはレベルの高い選手が多くいます。ですから、カナダに行けば04年のWFCで感じたトップ選手のゆったりとしたリズムを四六時中、感じられます。そしてカナダ人選手と会話することで英語も習得できる。僕にとってまさに一石二鳥だと考えたんです」
こうして06年1月、石田は大学を1年間休学してカナダへと渡った。
カナダでは基礎を徹底的に鍛え直した。
「カナダの選手は基礎がしっかりしているんです。もちろん難しい技もやっていたのですが、そのベースにあるのは基礎。フットバッグの技には段階があって、基礎となるのはレベル1〜2の技です。基礎レベルの技ができないと、その先の高いレベルの技を習得するのは難しい。たとえばミラージュはレベル2の技で、ミラージュの動きが組み込まれた技がレベル3にあります。ということは、まずミラージュをマスターしないと、レベル3の技はできないんです。基礎の延長線上に難易度の高い技があるんです」
またカナダの選手には、やはり力みがなかった。2分間のフリースタイルでは、終盤になるにつれて疲れがたまり、ミスにつながることがある。ゆえに、リラックスした状態で技を繰り出せるかが重要になる。こうした基礎を身に付けることは、常に安定した状態でパフォーマンスを続ける上でも重要だった。
同年10月上旬、石田はカナダでの修行を終えて日本に帰国した。修行の成果は同月に行われた第4回JFCで早くも表れた。過去に目立っていたドロップ数は激減し、徹底された基礎の上に成り立つ確実性のある技が、審査員から高い評価を得た。競技開始から3年、ついに石田は日本フットバッグ界の頂点に立った。
07年には04年以来、2度目のWFCに出場。 “日本王者”の肩書きを得た石田は、言う間でもなく同大会で上位進出を狙っていた。ところが、である。満を持して臨んだ大会で、石田は21位という結果に終わった。世界のトップ選手との間には、まだ埋めがたい大きな差があった。
(後編につづく)
<石田太志(いしだ・たいし)>
1984年4月5日、神奈川県生まれ。2014年フットバッグの世界大会である「World Footbag Championships 2014」にてアジア人初の世界一に輝いた日本を代表するフットバッグプレーヤー。小学校から高校までサッカーを続け、大学1年時にフットバッグに出合う。大学在学中の06年にはカナダに1年間、08年にはヨーロッパに渡り、フットバッグの技術を磨きながら海外の多くの大会に出場し入賞。06年10月にはジャパン・フットバッグ・チャンピオンシップ(JFC)のフリースタイルで初優勝した。大学を卒業し、08年から株式会社コムデギャルソンに勤務。しかし、どうしてもフットバッグで生活していく夢を捨てられず、11年8月に会社を退職し、プロフットバッグプレーヤーに転向。現在は世界唯一のプロフットバッグプレーヤーとしてメディア出演やパフォーマンス活動も精力的に行い、またフットバッグを使用したサッカースキルアッププログラムや他スポーツでの体幹や股関節トレーニング、高齢者の方への介護予防としてのトレーニングも各地で行っている。日本サッカー協会の夢先生の資格も保有しており、全国の小中学校で夢について教えている。JFC優勝通算3回(06年、10年、12年)。
>>石田太志オフィシャルサイト
>>夢先生オフィシャルサイト
>>日本フットバッグ協会
(文・写真/鈴木友多)
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