悔しすぎて、言葉がない。「人生で最悪の経験、それはW杯の決勝で負けることだ」と言ったクライフの言葉を思い出した。もともとさしたる関心もなく、再び関心を失っていく人たちは「残念」で済むのだろうが、敗れた本人や彼を支えてきた人たちの無念さたるや、いかばかりか――。もちろん、テニスの全米オープンについての話である。
 日本人選手がグランドスラムの決勝に進出するのと、日本サッカーがW杯の決勝に進出するのとどちらが大変か――そう聞かれたら、わたしは間髪入れずに「前者だ」と答える。コンマ1秒の逡巡もコンマ1ミリのブレもなく、確信をもってそう答える。

 個は集団のために存在することの多い国で育った人間が、強い個なしでは生きていけない環境で育ってきた人間と1対1で戦う。いざ戦いが始まってしまえば、助けてくれる仲間もいない。そんな状況で勝ち残れる日本人は、サッカーの世界におけるマラドーナ以上に希少かつ貴重な存在である。伊達公子だけが、頂点という領域に近づいた唯一の日本人だった。

 だから、錦織圭の決勝進出は、この原稿の最初から最後まで「とてつもない」という言葉で埋めつくしてもまるで足りないほどの、本当にとてつもない快挙だった。どれほどの賛辞を贈っても大げさではない。

 ただ、これはあくまでも錦織という個人選手の偉業である。今回の偉業を語る上で「日本の誇り」といった表現を見聞きすることもあるが、個人的には強い違和感を覚える。

 錦織選手は日本人だが、彼を育てたのは米国である。米国の環境がなければ、錦織選手のいまは間違いなくない。言ってみれば、日本は卵を生むだけ生んであとは托卵したようなもの。成功を収めたからといって手柄を共有しようというのは、いささか虫が良すぎる。

 今回に限らず、日本人スポーツ選手が海外で成功を収めるために痛感するのは、日本人はこんなにも勝利に歓喜するのに、なぜ勝利をつかむ確率を向上させようとしないのか、ということである。優秀な選手をコンスタントに輩出し、育てていくためには豊かな土壌が必要である。次の勝利者を生むために必要なのは、国民栄誉賞ではなく、スポーツを楽しむ環境の充実である。誰もがスポーツを楽しめる環境が生まれない限り、トップアスリートが競技に専念できる環境が増えていかない限り、今後も日本は才能を海外に托卵していくしかない。

 世界3位の経済大国でありながら、Jリーガーと呼ばれている選手の多くは、ブラック企業も驚くほどの安い給与でプレーしている。高給を手にするには海外でプレーするしかない状況で育った選手たちが勝利をつかんだ時、それでも日本人は言うのだろうか。
「日本の誇りだ」と。

<この原稿は14年9月11付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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