監督1年目のシーズンが終わりました。結果としては、入場料を払って応援に来てくれたファンの皆さんや、練習環境を整えてくれた球団、支援していただいたスポンサーの皆さんの期待に応えることはできませんでした。それについては、監督として反省の気持ちでいっぱいです。ただ、「子どもたちの見本となること」というチームコンセプトを考えると、野球のみならず、人間性という部分においても、ある程度、役割を果たすことができたのではないかと思っています。
 チームにとってのターニングポイントは、前期と後期の間にありました。私は選手に「時を守り、場を清め、礼を正す」ために、前期には細かなルールを課していました。内容はそれほど難しいものではありません。「5分前にはグラウンドに入って準備をする」「周りをきれいに清掃する」「きちんと挨拶をする」といった基本的なものばかりでした。しかし、選手からは不満が出ていたのも事実でした。

 このままではかえってマイナスに働いてしまうと考え、後期に入る前に選手たちとミーティングを行ない、前期に比べて少し緩めることにしたのです。例えば、前期では毎日の朝礼で一人ひとりがその日の決意や目標を発表していました。しかし、それがプレッシャーになるという選手も少なくなく、後期では決意発表はやめることにしました。すると、後期は開幕5連勝を飾りました。その時は「自由にすると、やはり選手たちは伸び伸びとやれるのか」と思いました。

 しかし、いい状態は続きませんでした。徐々に積極性が失われ、ただ言われることをこなすだけで、自立した考えができなくなったのです。こちらとしても、選手が何を思い、何を考えて練習しているのかがわかりませんでした。やはり言葉に出して言わないと、1日を漠然と過ごしてしまいがちになるのです。練習のための練習をするだけで、本番感覚が失われていったのです。それが試合にも影響を及ぼしました。終盤の大事なところでバントを失敗してランナーを進めることができなかったり、守備ではお互いに声を掛け合わなかったために、選手同士でお見合いをしてフライを落としたり……。口に出して言う機会をなくしたために、お互いに細かいことに気づき合い、指摘し合えるチームをつくることができなかった。それが一番の反省点です。

 小川、アンダースロー転向のメリット

 チームとしては結果を出すことはできなかったものの、それでも選手たちは皆、成長してくれました。なかでもキャッチャーの尾中智哉(北見緑陵高−北翔大−SフォークD21−福井ミラクルエレファンツ)は変わりましたね。昨季までは打たれると「ピッチャーが、ここに投げてこなかった」と不満を口にすることもしばしばでした。しかし、今季はさまざまな人たちのアドバイスを受け、非常に素直な気持ちを持てるようになりました。もちろん、心の中ではいろいろと葛藤はあったでしょうし、時折顔に表れることもありましたが、それでも「打たれたら、キャッチャーである自分の責任」というようになったのです。

 また、ピッチャーでは小川武志(拓大紅陵高−松本大)ですね。小川は昨季、最速144キロのボールを投げていましたが、14試合に登板し、防御率5.16と結果を出すことができませんでした。そこで「このままでは自分は伸びない」と考えたのでしょう。オフにアンダースローへの転向を決意したのです。春のキャンプで見てみると、スピードこそ130キロ未満とグンと落ちましたが、それでもかたちにはなっていましたので、そのままアンダースローでやらせみることにしたのです。ところが、前期の前半、ここぞというところで打たれることが多く、結果が出ませんでした。

 そこで後半になって、小川から「やっぱり上から投げます」と言って来たのです。すると、スリークオーターに戻した途端に、スピードがグングン上がり、最速は147キロまで伸びました。さらに、真っ直ぐのスピードが上がったことによって、アンダースローにした時に覚えたシンカーが活きはじめました。真っ直ぐとのスピード差が大きく、緩急のついたピッチングができるようになったのです。

 また、身体の使い方が良くなりましたね。これも一度アンダースローにしたことが活きています。アンダースローというのは実は一番いい投げ方なのです。というのも、しっかりと下半身を使い、左肩を開かずに、ヒジをたたんで投げなければいけないからです。つまり小川は、アンダースローに転向したことで、身体の使い方も覚えたのです。

 周知の通り、7月にはセットアッパーとしてチームを支えてきた小林宏が埼玉西武へと移籍し、NPB復帰を果たしました。そこで私は、小川を小林の穴埋め役に抜擢し、クローザーの前の8回という責任あるポジションを与えました。この抜擢に、前期の成績を見れば、驚いた人も少なくありませんでしたが、私は小川ならきっと成長してくれるに違いないという確信があったのです。その私の期待に、小川は見事に応えてくれました。

 9月7日の富山サンダーバーズ戦でも、小川は見事なピッチングを見せてくれました。6回を終えて2−0とリードしていたのですが、7回表に1死一、二塁とチームはピンチを迎えました。ここで私は、小川をマウンドに上げました。小川は打者2人を、わずか5球で内野ゴロに打ち取り、ゼロに抑えてくれました。するとその裏、味方打線が打者10人の猛攻で一挙5点を挙げ、結局その試合は8−0で快勝することができました。しかし、7回に失点していれば、相手に流れがいっていたかもしれなかったのです。それを食い止めたのが小川でした。私はそんな成長した小川の姿に、思わず涙が出てきてしまい、それを隠すのに必死でした。それほど小川の成長ぶりには目を見張るものがありました。

 また、7月に加入した伊藤一(富士見高)ですが、トライアウトで140キロ台のボールを連発するなど、非常に高い素質を持っている若手です。しかし、これまで厳しい練習をしてこなかったのでしょう、加入当初は体力不足が目立ちました。例えばダッシュをさせても、他の選手の3分の1ほどで立つことができないような状態だったのです。まずは基礎的な身体づくりからのスタートでした。また、高校3年の夏の県予選で四球を2ケタも出すなど、伊藤には成功体験が乏しいということもありました。そこで、焦らずに成功体験が積めるようなところで投げさせ、自信を持ってほしいと思っていました。

 その自信を得たであろう試合が、9月13日の新潟アルビレックスBC戦でのピッチングです。2番手として6回から登板し、3イニングを3安打無失点と好投しました。しかし、マウンドに上がったばかりの6回は、死球と2本のヒットで無死満塁という大ピンチとなったのです。実は伊藤は、前の登板で手痛い一発を浴びていました。7月21日、新潟戦で登板し、4番打者に3ランを浴びたのです。それ以来の登板で、しかも同じ相手ということもあり、嫌なイメージを抱いていたことでしょう。

 そこで私はタイムをかけてマウンドに行き、伊藤に「ランナーを返してもいいから、絶対にボールを置きにいくようなことはするな。オマエの良さは腕の振りなんだから、思い切り腕を振って投げろ」と発破をかけました。すると、気持ちが切り替えられたのでしょうか、伊藤は後続をきっちりと打ち取り、無失点で切り抜けたのです。そしてさらにその後の2イニングもほぼ完璧に抑えました。この試合は、伊藤にとって大きな成功体験となったことでしょう。来季はさらなる成長が楽しみです。

 7年越しにかなった“けじめ”

 さて、15日の最終戦では、信州大学附属病院に入院している7歳の小松愛子さんが米国で心臓移植手術を受けられるようにと、球団が募金活動を行ないました。少しでも盛り上げようと、その日、私の登板が企画されました。公式戦のマウンドに上がるのは、実に7年2カ月ぶりのこと。これまで支えてくれた方々の感謝の気持ちをこめて、また自分のけじめとしても、とてもありがたい企画でした。とはいえ、肩の痛みもあり、練習期間はわずか1週間でしたので、正直、「ちゃんと投げられるだろうか」という不安があったのも事実です。

 しかし、その不安は1日で消えました。翌日、小川のピッチング練習を見ていた際に、大きなヒントを得たのです。それは、右足一本で立った時のグローブの位置でした。これはピッチングにおいて非常に重要で、このグラブの位置で、その後のトップへの持って行き方や、腕の力の抜け具合が決まってくるからです。トップの位置というのは、ピッチャーにとって生命線であり、私にとっては永遠のテーマでもありました。

 そのグラブの位置が、小川は以前、顔の前にありました。ところが、それが右耳の横に移動していることに、私はその時気づいたのです。実は私自身も、顎の前にグラブがあるような状態でした。それを小川と同じように右耳の横、つまり以前よりも頭に近づけてみたところ、非常にテイクバックしやすくなったのです。実際、本番ではイメージ通りのボールを投げることができました。

 実は当日、私はいろいろなことが走馬灯のように頭に浮かび、感慨深くなって、ブルペンにいる時から既にこらえきれずにいました。ブルペンを出る時も、涙で前が見えず、柱にぶつかりながらマウンドへと向かったのです。マウンドでボールを渡された時、「自分を一番表現できる場所に、やっと戻ってきたんだ」という思いがあふれ、また涙が出てきました。しかし、そんな状態では身体に力は入りません。マウンド上で気を引き締め直し、バッターを迎えました。

 投げたのはわずか5球。真っ直ぐのスピードは戻ってはいませんでしたが、それでも指にかかったボールがいっていました。すると1ボール2ストライクと追い込んだ時、無意識にも「真っ直ぐで決めたい」というピッチャーとしての本能が出てきました。しかし、力が入り過ぎてボール。実は、2006年のワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦もそうでした。2ストライクと追い込んだ最後のバッターを「真っ直ぐで締めたろ」と思って力んで投げた球がボールになったのです。そこで「やっぱりオレの決め打はスライダーなんだ」と冷静になり、ワンバウンドのスライダーで三振に仕留めて、世界一となったのです。この時もまったく同じでした。自分の決め球が何かを思い出し、最後はスライダーで三振を奪ったのです。

 7年前、私はレッドソックス戦で内野安打を打たれた直後、腕の張りを訴えて交代し、その後は一度もマウンドに上がっていません。「最後は三振を奪い、アウトを取って、現役を終えるんだ」。それが私の悲願であり、その思いで辛いリハビリにも耐えてきたのです。それがようやく叶い、現役としてのけじめをつけることができました。そんな機会を与えていただいたことに、本当に感謝しています。

 さて、監督として初めてのシーズンを過ごしてみて、監督というポジションがいかに大変かを痛感させらました。選手の時には自分のことさえしっかりやっていれば良かったので、オンとオフの切り替えもできていました。しかし、監督に就任して以降は、チームのことが頭から離れることがありませんでした。チームとしてどう戦っていくべきか、選手をどう育てようか、ファンや地域のためにはどうすればいいのか……と、寝ている時でさえもついつい考えてしまうのです。「指導者というのは、ここまで選手やチームのことを考えているのか」と身に染みて感じた1年でもありました。今季、経験したことを、次に活かしていき、これからは指導者として大きな夢をもって頑張っていこうと思っています。

大塚晶文(おおつか・あきのり)>:信濃グランセローズ監督
1972年1月13日、千葉県生まれ。横芝敬愛高、東海大、日本通運を経て、97年、近鉄にドラフト2位で入団。セットアッパー、クローザーとして活躍し、2001年には12年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。02年オフ、中日に移籍。翌オフにポスティングシステムで念願のメジャー入りを果たす。04、05年はパドレス、06、07年はレンジャーズで活躍した。06年第1回ワールド・ベースボール・クラシックではクローザーとして5試合に登板。決勝では8回途中から登板し、胴上げ投手となった。13年、信濃グランセローズに入団。14年より監督を務める。
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