メジャーリーグでも活躍した岩村明憲が東京ヤクルトから戦力外通告を受けた。本人は現役続行を希望しており、新たな所属先を探すことになる。日米5球団でプレーし、日本代表のWBC連覇(2006年、09年)にも貢献した岩村だが、多くの故障にも悩まされてきた。それでも彼はグラウンドに帰ってきた。特に03年の右手首骨折を期に野球観は一変したという。何事も苦しみが礎となる――。逆境に屈しない岩村の“何苦楚魂”を、10年前の原稿で触れてみよう。
<この原稿は2004年3月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

「ハイリスク、ハイリターンの勝負を挑んだところ、結果は悪い目に出てしまった。しかし、だからチャレンジは失敗だったとは思いたくない。ケガをしたことで見えてきたもの、得たものがある。僕の野球人生の中では大切な経験だったと思っています」

 一言一言、噛んで含めるようにヤクルト・岩村明憲は言った。トレードマークの金髪が個性派のイメージを増幅させる。
 昨年は最悪のシーズンだった。わずか60試合にしか出場することができず、打率2割6分3厘、12本塁打、35打点、5盗塁。目標に掲げていたトリプル3(3割、30本塁打、30盗塁)には遠く及ばなかった。

 02年のシーズン、三塁手として打率3割2分、23本塁打、71打点、5盗塁とチームの主軸にふさわしい成績を残した岩村は「さらなる進化」を求めて、昨年のキャンプ、オープン戦では1300グラムの重量バットを手に打席に立った。重いバットを振れば筋力が増し、スイングスピードが速くなる。その結果として飛距離が伸びる――そう判断したためである。ホームラン数を30本台に乗せるための、まさにハイリスク、ハイリターンのチャレンジであった。

 そして迎えた開幕ゲーム、この日は岩村にとって“野球人生最悪”の日となった。
 3月28日、神宮球場でのスワローズ対カープ戦。9回1死で打席に立った岩村は空振り三振に倒れた。

 手首の異変に気づいたのはベンチに帰る途中。いつもそうするようにバットを右手でクルクル回そうとしたところ、ズキンと鈍い痛みに襲われた。試合が終わり、引き上げる際に右手で帽子を持とうとしたが、それもできない。それではとツバの部分を指でつまんだが、帽子はわずか2センチ程度しか動かなかった。
「腹立つな。クソー、どうなっているんだ!?」
 敗戦の悔しさに手首の激痛が重なり、岩村はうめき声を発した。

 ユニホームを着たまま病院に直行。応急処置としてギプスを巻かれた。翌日、再検査。造影剤の注射を手首へ打ったところ、痛さのあまり一瞬、失神した。別の医師が瞳孔を調べ始めた。
 薄れゆく記憶の中で岩村は言った。
「先生、僕は死人じゃない。ちょっと待ってくれ!」

 MRI検査の結果、岩村は右手三角繊維軟骨複合体の水平断裂と診断された。全治2カ月の重傷。それが重いバットを振り続けた代償だった。
「もう二度とバットを振れないのではないか……」
 闘志をむき出しにしてプレーする男が、この時ばかりはふさぎ込んだ。

 3年連続ゴールデングラブ賞に輝いたサードのポジションにはライオンズから移籍してきた鈴木健が入った。
「悔しかった。それは誰だって思うことでしょう。もし何も思わない人がいたら、その人は素晴らしい方ですよ」

 復帰が近くなった頃、傷心の岩村の心の傷にシオを塗り込むような発言が飛び込んできた。
 背番号1の先輩であり、師と仰ぐ若松勉監督の「岩村を外野で使う」というコンバート発言だった。若松監督にすれば打力のある鈴木健をスタメンからはずしたくない。足のある岩村は外野手でも使える――そう判断しての発言だったのだろうが、おいそれと認めるわけにはいかない。

「外野なら野球を辞めます」
 岩村は即座に言い切った。

 この発言の真意はどこにあったのか。振り返って岩村は語る。
「僕はこのポジションで3度もゴールデングラブ賞を獲っている。02年はベストナインにも選ばれた。サードというポジションにはプライドも愛着もある。
 ところが、ちょっと休んでいると“もうサードでは使わない”と言う。いったい、僕のもらった賞は何だったのか。僕がこれまで積み上げてきた実績は何だったのか。そのことを僕は言いたかった。
 別に外野が嫌いだったというわけではない。しかし、納得のいく説明がないまま外野に回っても、いいプレーはできない。
 それにちょっと専門的な話をすれば、センターとサードでは距離感が違い過ぎる。センターで先発出場して、途中でサードに回るというのはできない相談です。そのことは僕の口からはっきりチーフコーチにも話しました」

 復帰戦は7月19日、札幌ドームでのドラゴンズ戦。ベッツの代走に起用された岩村はそのままサードに回り、試合を決めるタイムリーヒットを放った。
「ファンの拍手があれだけ感動的に感じられたことはない」
 いつになくしんみりとした口調で岩村は言った。

 9月9日のタイガース戦ではタイガースの伊良部秀輝からレフトスタンドに満塁ホームランを突き刺した。外角のストレートを完璧なスイングで打ち切った。重いバットを振って鍛えた筋肉がスイングに鋭さを呼び込んだ。リスクもあればリターンもあった。
「でもケガをして一番得たものは野球ができる喜びです」

 語気を強めて言い、岩村は続けた。
「大げさに言えばケガをしてから僕の野球観はガラッと変わった。野球ができることが、どれだけ幸せなことか。それを身をもって体験することができた。
 どんなに野球が好きでも1軍でプレーできる人は限られている。それだけの力量がない者もいれば、故障が原因でプレーしたくてもできない人もいる。2軍で調整している時、いろいろな選手のドラマを目の当たりにすることができました。
 幸い、僕は故障さえ治ればまた1軍でプレーすることができる。大好きな野球を思う存分やることができる。その喜びに比べればエラーの悔しさも三振の情けなさも小さなものです。それを知ることができただけでも、僕にとっては貴重な経験だった。もしあのケガがなかったら、今見えているものが見えてなかったかもしれない……」

 この2月で岩村は25歳を迎えた。
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