今や世界のトップ選手の仲間入りを果たした錦織圭。彼が1試合にストリング張りを依頼するラケットの数は6、7本。多い時には9本出すこともある。さらにオンコートの数も少なくなく、ストリング張りの本数もまた世界トップだという。そんな錦織だが、かつては最も少ない部類に入っていた。彼がラケットへの意識を高め、本数を増やし始めたのは、ストリンガー細谷理のあるひと言がきっかけだった。
 2007年秋のチャイナ・オープンでのことだ。細谷はオフィシャルストリンガーとして、会場入りしていた。当時、17歳だった錦織は上り調子だった。その年の3月、ジュニアのルキシロンカップで優勝。7月のLAテニス・オープンでは予選を勝ち上がって、自身初のツアー本戦出場を果たすと、翌週のRCA選手権では日本人男子史上最年少となるATPツアーベスト8進出。テニス界では“Kei Nishikori”の名が知られ始めていた。

 チャイナ・オープンで予選を勝ち上がった錦織は、本戦の初戦、現在は同世代のライバルであるミロシュ・ラオニッチ(カナダ)のコーチ、イワン・リュビチッチ(クロアチア)と対戦した。試合前日、細谷の元を訪れた錦織はストリング張りを依頼した。その時、細谷は驚いた。錦織が手にしていたラケットはわずか1本だったのだ。相手はその年、全豪、全米オープンで第4シードの選手である。その選手を相手に、3セットマッチとはいえ、たったの1本で勝負しようとしていたのだ。翻ってリュビチッチは、4本のラケットを出していた。細谷にしてみれば、既にそこで勝負はついているように思われた。そして、それをそのまま錦織に伝えた。

「おそらくリュビチッチは、君のことはほとんど知らないだろう。それでも、彼は予選上がりの君に対して4本のラケットを出している。ところが、君は世界のトップ選手を相手に、センターコートでこれから戦おうとしているのに、1本しか出してこない。これじゃ、勝負にならない!」

 すると、錦織は狐につままれたかのように、キョトンとしていた。彼は相手を軽くみていたわけでも何でもなく、トップ選手がそれだけの本数を出していることを知らなかったのだ。
「えっ!? そういうものなんですか? 全然知らなかった……」
 驚く錦織に、細谷は「覚えておくといいよ。ストリングの張り替えって、勝敗を左右する、とても重要なことだからね」とアドバイスを送った。

 チャイナ・オープンを終えた錦織は、日本国内で開催されるAIGジャパン・オープン(現・楽天ジャパンオープン)に出場するため、帰国した。そして10月1日、プロ宣言をし、ジャパン・オープンでプロデビューを果たした。つまり、ストリングの重要性を、アマチュア最後の大会で知ったのだ。

「結果的に僕が圭に説教をしたような感じになりましたけど、これからの選手でしたから、知っておいた方がいいかなと思ったんです。ただそれ以降、圭がストリング張りに対して意識が変わってきたのは確かです。出してくる本数が徐々に増えていって、今ではどの選手よりも多い。その分、作業は大変なんですけどね(笑)」
 今や世界ランキング最高6位にまでのぼりつめている錦織。細谷にすれば、彼の本数の多さは、ストリンガー冥利に尽きることだろう。

 フェデラー戦勝利前の妙案

 錦織へのアドバイスと言えば、こんなこともあったという。昨年3月のマイアミ・オープンでのことだ。錦織はふだん、縦糸は53ポンド、横糸は54ポンドのテンションでストリングを張る。ところが、その大会ではボールが飛び過ぎたため、縦糸60ポンド、横糸61ポンドにまで上がってしまったのだ。テンションが高ければ高いほど、身体にかかる負担は大きくなり、腕などに張りが出る。そのため、錦織はどうすればいいか悩んでいた。

 細谷によれば、同大会で公認球として採用されているボールは、正直あまり質のいいものではなかったという。
「公認球にしては、ちょっとひどいボールでしたね。耐久性が悪くて、すぐにダメになるんです。試合中にボールがパンクして、エアが抜けたこともあったほどです。ボールが飛び過ぎたり、試合中に急に飛ばなくなったり……。テニスの試合では、最初は7ゲーム、その後は9ゲームずつ、ニューボールが入るのですが、それまではボールを替えることはできないんです。お互いに同じ条件でやっているとはいえ、ちょっとひどいなと。圭としてはボールの飛び過ぎを抑えるために、テンションを上げざるを得なかったんです」

 しかし、そのまま使い続ければ、ヒジに負担がかかることは容易に想像することができた。大会途中、やはり錦織は「テンションを強くすると飛ばなくなって、抑えがきく分、やっぱり少し張りが出ます」と言うようになっていた。大会期間中、調整することは難しかった。しかし、その大会を終えれば、次の大会まで少し間がある。細谷はそこである提案をした。
「マイアミが終わったら、縦糸と横糸を逆にしてみようか?」

 現在、テニス界では縦糸と横糸とで異なる種類のストリングを張る「ハイブリッド」が主流となっている。プロでは「ハイブリッド」ではない選手は数えるほどで、ほとんどの選手が採用している。それに伴って、一般にも浸透してきている。錦織もまた、例にもれず「ハイブリッド」を採用しており、錦織の場合、縦糸をポリエステル、横糸を牛の腸で作られている天然素材のナチュラルを使用している。細谷の案は、逆に縦糸をナチュラル、横糸をポリエステルにするというものだった。

「逆にすることで、もしかしたら今までよりもボールの飛びが抑えられるかもしれない、と思ったんです」
 しかし、はじめ錦織はその案に難色を示した。実は以前、逆にしてみたことがあるのだという。その時は打球感が嫌で、すぐにやめてしまったのだ。だが、背に腹は代えられなかったのだろう。マイアミ以降は、クレーコートでの大会が続いたこともあり、錦織は結局、細谷の案を採用した。その結果、5月のマドリッド・オープンでは、3回戦でロジャー・フェデラー(スイス)を破る大金星を挙げた。要因のひとつに、細谷の妙案があったことは確かであろう。

 細谷は言う。
「僕らプロのストリンガーは、ただきれいに張って自分が満足すればいいというわけではありません。使う人が満足するようにしなければならない。それは相手がプロであろうと、一般の人であろうと同じです。僕のところにラケットを持ってきたすべての人が大事なお客さん。その人たちのニーズに応えられるようにする。それが僕の仕事だと思っています」
 自身がストリングを張ったラケットを使う人が、最高のプレーができるように――それがストリンガー細谷の“やりがい”である。

(おわり)

細谷理(ほそや・ただし)
1969年、神奈川県生まれ。高校時代は硬式テニス部に所属。大学卒業後は高校の非常勤講師を務め、その後、知人の紹介で英国の日本人学校に赴任し、英語教師となる。帰国後はスポーツ用品店に勤務し、ストリンガーとして歩み始める。2001年からはツアーストリンガーとして、ATPツアーを回っている。10年、神奈川県茅ヶ崎市にテニスショップ「On Court (Racquet)!」をオープンさせた。
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