今や日本のバスケットボール界で、彼女の名を知らない者はいないと言っても過言ではないだろう。日本人女性において国際審判員第1号の須黒祥子だ。これまで何度も国際大会で笛を吹き、その経験値を買われて2012年ロンドン五輪の審判員にも抜擢されるほどの腕前をもつ。そんな須黒が、初めて公式戦での国際舞台として笛を吹いたのが、04年アテネ五輪だった。当時は国際大会未経験の自分が選ばれた理由も、審判員としての自信もなかった須黒には不安しかなく、実際何もできなかったという思いしか残らなかったという。選ばれし審判員しか知ることのできない、もうひとつの五輪の舞台がそこにはあった――。
 今からちょうど10年前の04年3月10日は、須黒には一生忘れることのできない日となった。母親の誕生日だったというその日、彼女のもとに1本の電話がかかってきた。須黒がアテネ五輪の審判員に選ばれたという、日本バスケットボール協会からの知らせだった。
「何で私なのか、まったくわからず、ただただビックリしました」
 わずか3カ月前に国際審判員の資格を取得したばかりの須黒はその時、公式戦ではただの一度も国際マッチで笛を吹くという経験をしていなかったのである。

「オリンピックの舞台を踏むことなんて、それまでまったく考えたこともありませんでした」
 中学、高校とバスケットボール部で選手として活動していた頃も、オリンピックを夢見ることは一度もなかったという須黒。そんな彼女は、03年に国際審判員の資格を取得しても、オリンピックは他人事でしかなかった。いったいなぜ、国際バスケットボール連盟(FIBA)は、須黒に白羽の矢を立てたのか――。

「当時はまったくわかりませんでしたが、今になって考えると、時代の流れだったのかなと。ひとつはFIBAが、チームとしてもレフリーとしても、アジアのグレードを上げようとしていたこと。もうひとつは女性のレフリーを発掘して、女子のゲームは女性レフリーが吹くようにしたいということ。そういうFIBAの考えがあったんじゃないかと思うんです」
 FIBAにとって日本人女性初の国際審判員となったばかりの須黒は、まさにうってつけの存在だったのだろう。だが、当の本人はとすれば、国際経験がないまま、オリンピックで笛を吹かなければならなくなったことに、不安しかなかったという。

 はじめと終わりが肝心の国際大会

 アテネ五輪で指名された審判員30人のうち女性は6人。世界各国から優秀な審判員が集められていた。その中で最年少の須黒は「右も左もわからない」状態の中、7−8位決定戦を含む4試合の副審を務めた。
「やっぱり怖さはありましたね。堂々と立つことと、自分の笛には責任を持つこと。そんなことくらいしかできませんでした。いいゲームにするには、レフリーがやらなければいけないことはたくさんあるんです。でも、まったくできなかった。他のレフリーたちにおんぶにだっこ状態だったんです」

 当時の須黒にとっては、選ばれた理由もわからなければ、何もできなかったという思いが強かったため、大会後はできることなら封印したいくらいの気持ちだったという。だが、そんな気持ちとは裏腹に、帰国後はメディアで取り上げられることが増えた。その場は笑顔で答えるものの、内心は嫌で嫌で仕方なかったという。
「新聞に記事が掲載された途端に、取材が殺到したんです。本の出版や講演の話まできたくらいです。でも、『どうでしたか?』なんて聞かれても、何もできなかったという気持ちしかなかったので、答えようがなかったんです。できることなら、話したくないと思っていました」

 とはいえ、須黒には貴重な経験でもあった。右も左もわからない状態の中、彼女をいろいろとサポートしてくれたのが、同じ審判員の先輩たちだった。
「フランス人とカナダ人の審判員が、とてもよく面倒を見てくれたんです。どこかに行く時も、必ず『祥子、祥子』って呼んでくれて、一緒に行動してくれました。彼女たちからは本当にいろいろと教わりました。本来であれば、コート上でのことをアドバイスしてもらうべきだったと思いますが、当時の私はそこまでのレベルに達していなかったのでしょう。彼女たちが教えてくれたのは、コート外のことだったんです」

 それは、国際大会での過ごし方だった。審判員は自分に割り当てられた試合以外の時間は、自由に過ごすことができるのだという。何時に起きても、いつ寝ていてもいいのだ。しかし、須黒がアドバイスを受けたのは、「きちんと朝ごはんを食べること」と「その日の最後の試合会場にはいるようにすること」だった。それは新鮮な情報を得るための方法だった。

「試合さえ割り当てられていなければ、朝ご飯を食べずに寝ていてもいいんです。でも、みんなが集まる食堂にいることで得られる情報がある。だから、朝ごはんはきちんと食べるようにした方がいい、と言われました。それから最後のゲームは好カードが割り当てられることが多いので、結構レフリーが集まるんです。そうすると、そこでもいろいろと話を聞くことができる。それに、最後のゲームの時に翌日の割り当てが発表されたりするので、その場にいないと、自分だけわからないということにもなりかねない、というわけです」
 いい審判員仲間に恵まれたことが、須黒の唯一の救いだった。

 その後、須黒は再び五輪の審判員に選出されるなど、数々の国際舞台で笛を吹いてきた。ロンドン五輪ではメダルがかかった3位決定戦の副審にも抜擢されるなど、審判員としてのキャリアを積み上げてきた。その中で、審判員の存在に対する考え方も変化してきたという。
「ファウルを見落とさずに笛を吹くことが、審判員の一番の役割ではない」
 と須黒は言う。果たして、審判員の役割とは――。

須黒祥子(すぐろ・しょうこ)
1971年7月28日、東京都生まれ。中学からバスケットボールを始める。日本体育大学在学中に母校のバスケットボール部コーチとなり、恩師のすすめで練習試合で審判員も務めるようになる。大学卒業後、高校教諭となり、バスケットボールを指導する傍ら、審判員としてのキャリアを積む。95年に日本バスケットボール協会公認審判員、2000年には女性初のA級審判員、翌年には国内最高のAA級審判員に昇格。03年には国際バスケットボール連盟審判員の日本人女性第1号となる。04年アテネ五輪、12年ロンドン五輪で副審を務めた。現在、都立駒場高校に勤務する傍ら、日本バスケットボール協会国際審判員としても活躍している。

(斎藤寿子)
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