井手勇次(東京サンレーヴス)<後編>「東京浮沈のカギ握る大黒柱」
「僕はもともとサッカー少年だったんです」
井手勇次にバスケットボールを始めたきっかけを訊ねて返ってきた言葉に、驚きを隠せなかった。というのも、彼の両親はともにバスケットボールの実業団の選手であるため、当然井手も、小さい頃から両親と同じ競技に触れているだろうと考えていたからだ。しかし、埼玉県にある実家の近くにはミニバスのチームがなかったのだという。そのため、井手は幼稚園の時に2つ上の兄と同じチームでサッカーを始めたのだ。当時の彼の夢はJリーガーになること。では、井手がサッカーからバスケットボールに転向するきっかけは何だったのか。
ある時、両親が埼玉県上尾市のミニバスチームのコーチを務めることになり、井手は兄と一緒に練習場へついて行っていたが、彼はしばらくバスケットボールに関心を示すことはなかった。しかし、小学3年の時、両親から「やってみるか」と勧められて何気なくミニバスチームの練習に初めて参加した。
「めちゃくちゃキツイ! でも、楽しい」
これが初めてバスケットボールを体験した時の井手の感想である。サッカーでは体験したことのない充実感を得られたことで井手は競技の虜になった。しばらくはサッカーと二足のわらじを継続していたが、小学4年になってミニバスチームへ入団したことを機にバスケに専念するようになった。
「小学4年の頃はまだ足もそんなに速くなく、目立つような選手ではありませんでした。それでも、戦術理解の早さや、勝負をわけるような場面での勝負強さはあったと思います」
父・慶司はこのように本格的に競技を始めたころの井手について振り返った。練習では主にディフェンス、左手でのドリブルの練習を心掛けさせたという。
「ディフェンスは心掛けないと身につきませんからね。またドリブルについては、右利きの選手なら誰でも右手のドリブルはできます。しかし、左手は努力しないとモノになりませんので、重点的に練習させました。ですから、勇次は今でも左のドリブルの方が得意なんじゃないでしょうか」
井手の左右を問わないドリブルの鋭さの原点は小学生時代にあったのだ。
また父・慶司はシュート練習にも時間を割かせた。その理由については「私も妻もシュータータイプだったことが大きいですね」と語った。両親のシューターとしての系譜を受け継いだ井手は、練習や試合でシュートセンスの高さを発揮した。
「勇次はフリースローやプレイの中でのシュートなど、シュートタッチのセンスは高かったです。シューターはリングまでの距離感を体で会得するくらい打たないといけない。そのことは本人も意識して練習していたと思いますね」
井手が進学した中学校でも父・慶司が外部コーチとして指導することになった。学校自体の生徒数が少ないこともあり、バスケ部の選手層は薄かった。井手は中心選手としてチームを牽引。父・慶司が考えたフォーメーションをいち早く理解し、ゲームメイクするなど、ガードとしての基礎を築いていった。大会成績は井手によると「県大会に1度出場したくらい」。それでも井手個人は埼玉選抜に選出されるなど、着実に成長していった。
あえて選んだ厳しい環境での挑戦
埼玉選抜などでの活躍が評価され、2004年、井手は特待生として地元の東和大昌平高校に進学した。04年は埼玉国体開催の年で、県内有数の強豪である東和大昌平には国体に向けて地元の実力ある選手が集まっていた。井手は1年生ながらベンチ入りし、試合にも出場していたが、自身がやりたいスタイルと東和大昌平のスタイルにギャップを感じていた。試合を見に行っていた父・慶司も「すごく悩んでいるように見えましたね」と当時の様子を明かした。
「このままの状況ではバスケットボールを嫌いになるかもしれない」と思った井手が決意したのが転校だった。1年生の2学期前に転校すれば、公式戦に出場できない期間(半年)は主に1年生の間。致命的なタイムロスにはならないと判断した。
「転校までして続けるなら全国でも強豪といわれる高校で勝負したい」
こう考えた井手は父・慶司と相談した上で04年8月、北陸高校への転校を決めた。全国大会上位常連の北陸高バスケットボール部は「練習後は帰宅する気力すらなくなる」といわれるほど、練習が厳しいことで知られていた。しかし、「バスケットボールに没頭したい」と考えていた井手にとっては、その厳しささえも魅力のひとつに映っていた。
「跳んだり、走ったり、身体能力が優れた選手だと感じましたね」
井手の第一印象をこう振り返ったのは、当時の北陸高コーチの久井茂稔(現監督)だ。井手の2学年上には山本エドワード(現島根スサノオマジック)や西村文男(現千葉ジェッツ)らがいた。久井は「先輩たちにもひけをとらないモノを持っていました」と井手の潜在能力を評価していた。
井手は全国から集まった実力者たちの中で切磋琢磨する北陸高の環境が「自分のバスケットボール人生ですごく大きかった」と述べた。
「山本エドワーズさん、西村さんといったレベルの高い選手たちと一緒にプレイすることで、自然と競技への取り組み方などが変わったように思います。それまで自分で良しとしていた基準も変わりました。“もっと頑張らないといけない”と」
出場停止期間中は練習試合で思い切りのいいシュートや得点力の高さを首脳陣にアピールした。2年生になって出場停止が解けると、公式戦でもレギュラーとして出場するようになった。井手の学年が中心となったチームには篠山竜青(現東芝ブレイブサンダーズ)、多嶋朝飛(現レバンガ北海道)という能力の高いガードがいた。北陸高は彼らと井手を加えたスリーガードのような布陣を組んだ。ゲームメイクは篠山や多嶋が担い、井手はシュートやドライブで得点を狙うという役割でチームに貢献した。
久井には印象に残っている試合がある。それは井手が高校3年だった06年12月に行われたウィンターカップ(WC)準決勝の八王子高校戦だ。79−79で迎えた第4クォーター、残り34秒の場面で、井手が3ポイントシュートを決めて北陸高が競り勝った。
「実は、あの場面は私が選手たちに指示していたプレイではなかったんです。サイドスローインから篠山と井手が2人で合わせて、井手が3ポイントを狙った。それが決まって周りは喜んでいたんですが、私は少し複雑でしたね。“指示したプレイではないんだけどなぁ”と(笑)。逆に言えば、井手や篠山らは試合の中で状況判断ができていたということでしょう」
WCは準優勝に終わったものの、同年夏のインターハイは優勝、秋の国体も3位に入るなど、井手の北陸高での競技生活は上々の結果で幕を閉じた。
「厳しい練習でフィジカル能力が向上し、精神的にも鍛えられました。北陸高に転校してなければ今の僕はないと思っています」
北陸高で選手として一回りも二回りも大きくなった井手は07年4月、早稲田大学に進学。大学でも主力として試合に出続けた。
バスケを諦めきれずプロの世界へ
大学卒業にあたり、彼は実業団での現役続行を目指したが、希望していた実業団への入団は叶わなかった。井手はショックを受けたが、就職せずにふらふらするわけにもいかない。「こうなったことも何かの縁かもしれない」と切り替え、彼はバスケットボールを諦めることを条件に父親の紹介で会社に就職した。しかし、バスケットボールがない生活は井手にとって耐えがたいモノだった。
「それまでの競技人生でもキツイ時がありました。でもバスケットボールが好き、上を目指したいという気持ちがあったので耐えられた。仕事でもそういう“頑張れる理由”がないと、苦しい時を乗り越えられないと思っていました」
生き甲斐を求めて――。井手は「親に勘当されても仕方がない」という覚悟で会社を退職した。父・慶司はその時の心境を「採用していただいた会社、ご支援いただいた方に大変ご迷惑をかけたので、もう怒り心頭でしたよ」と振り返った。それでも「私自身ができなかったプロという道に挑戦するということで、成功して周りを納得させてくれればいい」と父は息子を見守ることにした。
かくしてプロへの挑戦を決めた井手は、bjリーグのチームやJBL(現NBL)のリンク栃木ブレックスの練習に参加。11年8月、ブレックスから入団許可を得た上で傘下の「TGI D-RISE」に所属することになった。TGI D-RISEではレギュラーとして試合に出場し、ブレックスから日本代表選手が選出された時はコールアップ(昇格)されてトップチームの練習やプレシーズンゲームに参加した。
TGI D-RISEで1シーズンを経た翌12年にはbjリーグの合同トライアウトを受けた。
「TGI D-RISEから契約延長のオファーもありましたが、僕の中では異なる環境に身をおいてスキルアップしたいという考えがありました。その意味で、外国人と競い合えるbjリーグは僕が求めるニーズに合っていたんです」
トライアウト後に行われたドラフト会議で、井手は島根から1巡目指名を受けた。島根では目立った活躍はできなかったものの、昨季に東京サンレーヴスへ移籍し、大活躍したことは前編で触れたとおりだ。
迎えた今季、東京は25日現在、16試合を終えて4勝12敗の10位に位置している。苦しい状況だが、今季からは8位までがプレイオフに進出することできるだけに、まだまだ諦める順位ではない。その中で、キャプテンの井手はどのようなプランを描いているのか。
「プレイオフになれば、しり上がりに調子を上げていくチームが有利。(ファイナルが開催される)有明では一発勝負のトーナメント戦になるので、その時にノリノリのチームが勝つんです。ただ、徐々に調子を上げていくためには、同じような負け方を繰り返していてはダメです。勝てない時は何か理由があります。そういう課題をひとつひとつ乗り越えていければ、確実にプレイオフには進めると思っています。」
昨季のMIP賞を受賞するほど活躍した井手は、対戦相手から厳しいマークを受けている。たとえば井手がボールサイドと逆のサイドにいたとしても、彼からマークが外れることは少ない。相手が東京のキーマンである井手を徹底的に警戒しているからだ。しかし、井手に焦りはない。今季は「チームを勝利に導くこと」を第一に考えているからだ。
「僕はチームが勝てばいいと考えています。自分が20点、30点取って勝てれば嬉しいですけど、そこにこだわっても勝てなければ意味がないですからね」
井手の好きな言葉は“Up to You”(自分次第)だ。東京浮沈のカギは名実ともにチームの大黒柱となった26歳が握っている。
(おわり)
<井手勇次(いで・ゆうじ)>
1988年6月8日、埼玉県生まれ。北陸高―早大―TGI D-RISE―島根―東京。実業団の元選手だった両親がミニバスのコーチを務めていた影響で小学4年からバスケットボールを始める。瓦葦中を経て東和大昌平高に進学するも、1年次の途中で北陸高へ転校。北陸高では中心選手として06年インターハイ優勝、国民体育大会3位、ウインターカップ準優勝を経験した。11年、早大卒業後にリンク栃木ブレックス傘下のTGI D-RISEに入団。12年6月に島根から1巡目指名を受けてbjリーグ入り。東京に移籍した昨季はレギュラーシーズン全52試合にスタメン出場を果たし、MIP賞を受賞した。今季は東京のキャプテンに就任した。ポジションはガード(G)。身長181センチ、体重83キロ。背番号37。
>>東京サンレーヴス公式サイト
>>井手勇次オフィシャルブログ
(文・写真/鈴木友多)
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井手勇次にバスケットボールを始めたきっかけを訊ねて返ってきた言葉に、驚きを隠せなかった。というのも、彼の両親はともにバスケットボールの実業団の選手であるため、当然井手も、小さい頃から両親と同じ競技に触れているだろうと考えていたからだ。しかし、埼玉県にある実家の近くにはミニバスのチームがなかったのだという。そのため、井手は幼稚園の時に2つ上の兄と同じチームでサッカーを始めたのだ。当時の彼の夢はJリーガーになること。では、井手がサッカーからバスケットボールに転向するきっかけは何だったのか。
ある時、両親が埼玉県上尾市のミニバスチームのコーチを務めることになり、井手は兄と一緒に練習場へついて行っていたが、彼はしばらくバスケットボールに関心を示すことはなかった。しかし、小学3年の時、両親から「やってみるか」と勧められて何気なくミニバスチームの練習に初めて参加した。
「めちゃくちゃキツイ! でも、楽しい」
これが初めてバスケットボールを体験した時の井手の感想である。サッカーでは体験したことのない充実感を得られたことで井手は競技の虜になった。しばらくはサッカーと二足のわらじを継続していたが、小学4年になってミニバスチームへ入団したことを機にバスケに専念するようになった。
「小学4年の頃はまだ足もそんなに速くなく、目立つような選手ではありませんでした。それでも、戦術理解の早さや、勝負をわけるような場面での勝負強さはあったと思います」
父・慶司はこのように本格的に競技を始めたころの井手について振り返った。練習では主にディフェンス、左手でのドリブルの練習を心掛けさせたという。
「ディフェンスは心掛けないと身につきませんからね。またドリブルについては、右利きの選手なら誰でも右手のドリブルはできます。しかし、左手は努力しないとモノになりませんので、重点的に練習させました。ですから、勇次は今でも左のドリブルの方が得意なんじゃないでしょうか」
井手の左右を問わないドリブルの鋭さの原点は小学生時代にあったのだ。
また父・慶司はシュート練習にも時間を割かせた。その理由については「私も妻もシュータータイプだったことが大きいですね」と語った。両親のシューターとしての系譜を受け継いだ井手は、練習や試合でシュートセンスの高さを発揮した。
「勇次はフリースローやプレイの中でのシュートなど、シュートタッチのセンスは高かったです。シューターはリングまでの距離感を体で会得するくらい打たないといけない。そのことは本人も意識して練習していたと思いますね」
井手が進学した中学校でも父・慶司が外部コーチとして指導することになった。学校自体の生徒数が少ないこともあり、バスケ部の選手層は薄かった。井手は中心選手としてチームを牽引。父・慶司が考えたフォーメーションをいち早く理解し、ゲームメイクするなど、ガードとしての基礎を築いていった。大会成績は井手によると「県大会に1度出場したくらい」。それでも井手個人は埼玉選抜に選出されるなど、着実に成長していった。
あえて選んだ厳しい環境での挑戦
埼玉選抜などでの活躍が評価され、2004年、井手は特待生として地元の東和大昌平高校に進学した。04年は埼玉国体開催の年で、県内有数の強豪である東和大昌平には国体に向けて地元の実力ある選手が集まっていた。井手は1年生ながらベンチ入りし、試合にも出場していたが、自身がやりたいスタイルと東和大昌平のスタイルにギャップを感じていた。試合を見に行っていた父・慶司も「すごく悩んでいるように見えましたね」と当時の様子を明かした。
「このままの状況ではバスケットボールを嫌いになるかもしれない」と思った井手が決意したのが転校だった。1年生の2学期前に転校すれば、公式戦に出場できない期間(半年)は主に1年生の間。致命的なタイムロスにはならないと判断した。
「転校までして続けるなら全国でも強豪といわれる高校で勝負したい」
こう考えた井手は父・慶司と相談した上で04年8月、北陸高校への転校を決めた。全国大会上位常連の北陸高バスケットボール部は「練習後は帰宅する気力すらなくなる」といわれるほど、練習が厳しいことで知られていた。しかし、「バスケットボールに没頭したい」と考えていた井手にとっては、その厳しささえも魅力のひとつに映っていた。
「跳んだり、走ったり、身体能力が優れた選手だと感じましたね」
井手の第一印象をこう振り返ったのは、当時の北陸高コーチの久井茂稔(現監督)だ。井手の2学年上には山本エドワード(現島根スサノオマジック)や西村文男(現千葉ジェッツ)らがいた。久井は「先輩たちにもひけをとらないモノを持っていました」と井手の潜在能力を評価していた。
井手は全国から集まった実力者たちの中で切磋琢磨する北陸高の環境が「自分のバスケットボール人生ですごく大きかった」と述べた。
「山本エドワーズさん、西村さんといったレベルの高い選手たちと一緒にプレイすることで、自然と競技への取り組み方などが変わったように思います。それまで自分で良しとしていた基準も変わりました。“もっと頑張らないといけない”と」
出場停止期間中は練習試合で思い切りのいいシュートや得点力の高さを首脳陣にアピールした。2年生になって出場停止が解けると、公式戦でもレギュラーとして出場するようになった。井手の学年が中心となったチームには篠山竜青(現東芝ブレイブサンダーズ)、多嶋朝飛(現レバンガ北海道)という能力の高いガードがいた。北陸高は彼らと井手を加えたスリーガードのような布陣を組んだ。ゲームメイクは篠山や多嶋が担い、井手はシュートやドライブで得点を狙うという役割でチームに貢献した。
久井には印象に残っている試合がある。それは井手が高校3年だった06年12月に行われたウィンターカップ(WC)準決勝の八王子高校戦だ。79−79で迎えた第4クォーター、残り34秒の場面で、井手が3ポイントシュートを決めて北陸高が競り勝った。
「実は、あの場面は私が選手たちに指示していたプレイではなかったんです。サイドスローインから篠山と井手が2人で合わせて、井手が3ポイントを狙った。それが決まって周りは喜んでいたんですが、私は少し複雑でしたね。“指示したプレイではないんだけどなぁ”と(笑)。逆に言えば、井手や篠山らは試合の中で状況判断ができていたということでしょう」
WCは準優勝に終わったものの、同年夏のインターハイは優勝、秋の国体も3位に入るなど、井手の北陸高での競技生活は上々の結果で幕を閉じた。
「厳しい練習でフィジカル能力が向上し、精神的にも鍛えられました。北陸高に転校してなければ今の僕はないと思っています」
北陸高で選手として一回りも二回りも大きくなった井手は07年4月、早稲田大学に進学。大学でも主力として試合に出続けた。
バスケを諦めきれずプロの世界へ
大学卒業にあたり、彼は実業団での現役続行を目指したが、希望していた実業団への入団は叶わなかった。井手はショックを受けたが、就職せずにふらふらするわけにもいかない。「こうなったことも何かの縁かもしれない」と切り替え、彼はバスケットボールを諦めることを条件に父親の紹介で会社に就職した。しかし、バスケットボールがない生活は井手にとって耐えがたいモノだった。
「それまでの競技人生でもキツイ時がありました。でもバスケットボールが好き、上を目指したいという気持ちがあったので耐えられた。仕事でもそういう“頑張れる理由”がないと、苦しい時を乗り越えられないと思っていました」
生き甲斐を求めて――。井手は「親に勘当されても仕方がない」という覚悟で会社を退職した。父・慶司はその時の心境を「採用していただいた会社、ご支援いただいた方に大変ご迷惑をかけたので、もう怒り心頭でしたよ」と振り返った。それでも「私自身ができなかったプロという道に挑戦するということで、成功して周りを納得させてくれればいい」と父は息子を見守ることにした。
かくしてプロへの挑戦を決めた井手は、bjリーグのチームやJBL(現NBL)のリンク栃木ブレックスの練習に参加。11年8月、ブレックスから入団許可を得た上で傘下の「TGI D-RISE」に所属することになった。TGI D-RISEではレギュラーとして試合に出場し、ブレックスから日本代表選手が選出された時はコールアップ(昇格)されてトップチームの練習やプレシーズンゲームに参加した。
TGI D-RISEで1シーズンを経た翌12年にはbjリーグの合同トライアウトを受けた。
「TGI D-RISEから契約延長のオファーもありましたが、僕の中では異なる環境に身をおいてスキルアップしたいという考えがありました。その意味で、外国人と競い合えるbjリーグは僕が求めるニーズに合っていたんです」
トライアウト後に行われたドラフト会議で、井手は島根から1巡目指名を受けた。島根では目立った活躍はできなかったものの、昨季に東京サンレーヴスへ移籍し、大活躍したことは前編で触れたとおりだ。
迎えた今季、東京は25日現在、16試合を終えて4勝12敗の10位に位置している。苦しい状況だが、今季からは8位までがプレイオフに進出することできるだけに、まだまだ諦める順位ではない。その中で、キャプテンの井手はどのようなプランを描いているのか。
「プレイオフになれば、しり上がりに調子を上げていくチームが有利。(ファイナルが開催される)有明では一発勝負のトーナメント戦になるので、その時にノリノリのチームが勝つんです。ただ、徐々に調子を上げていくためには、同じような負け方を繰り返していてはダメです。勝てない時は何か理由があります。そういう課題をひとつひとつ乗り越えていければ、確実にプレイオフには進めると思っています。」
昨季のMIP賞を受賞するほど活躍した井手は、対戦相手から厳しいマークを受けている。たとえば井手がボールサイドと逆のサイドにいたとしても、彼からマークが外れることは少ない。相手が東京のキーマンである井手を徹底的に警戒しているからだ。しかし、井手に焦りはない。今季は「チームを勝利に導くこと」を第一に考えているからだ。
「僕はチームが勝てばいいと考えています。自分が20点、30点取って勝てれば嬉しいですけど、そこにこだわっても勝てなければ意味がないですからね」
井手の好きな言葉は“Up to You”(自分次第)だ。東京浮沈のカギは名実ともにチームの大黒柱となった26歳が握っている。
(おわり)
<井手勇次(いで・ゆうじ)>
1988年6月8日、埼玉県生まれ。北陸高―早大―TGI D-RISE―島根―東京。実業団の元選手だった両親がミニバスのコーチを務めていた影響で小学4年からバスケットボールを始める。瓦葦中を経て東和大昌平高に進学するも、1年次の途中で北陸高へ転校。北陸高では中心選手として06年インターハイ優勝、国民体育大会3位、ウインターカップ準優勝を経験した。11年、早大卒業後にリンク栃木ブレックス傘下のTGI D-RISEに入団。12年6月に島根から1巡目指名を受けてbjリーグ入り。東京に移籍した昨季はレギュラーシーズン全52試合にスタメン出場を果たし、MIP賞を受賞した。今季は東京のキャプテンに就任した。ポジションはガード(G)。身長181センチ、体重83キロ。背番号37。
>>東京サンレーヴス公式サイト
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(文・写真/鈴木友多)
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