サンフランシスコを本拠地としたフジアスレチックスは米国における日系人初の野球チームと言われている。このチームは強く、ゲームが終わりに近付くと、すぐ球場から逃げ出せるようにと用具類など荷物をまとめてベンチの隅に置くのを常とした。なぜなら、負けたチームが腹いせとばかりに襲いかかってくることがままあったらからである。日系人への偏見が、その背景にはあった。
 フジアスレチックスの中心選手はチウラ・オバタ(小圃千浦)。岡山県出身の画家である。1903年、18歳で単身渡米し、ヨセミテ渓谷を題材にした日本画で評価を得た。その幻想的な画風は、当時の米国画壇に強い衝撃を与えたといわれている。今でいう「クールジャパン」の走りである。

 画家としての実力が認められ、大学で日本画を指導するまでになったチウラだが、日米開戦を機に人生が暗転する。家族もろとも強制収容所に送られ、過酷な生活を余儀なくされる。

 とりわけユタ州トパーズの収容所の環境は劣悪だった。屋根も電気もない生活。砂漠の中ゆえ、夏はカンカン照り、冬は凍てついた砂嵐が舞う中、4人の家族は一枚の毛布にくるまって寝た。

 日系人同士の争いもあった。米国に住んでいる以上は米国に忠誠を誓うべきという立場のグループと、祖国を裏切るべきではないという立場のグループが対立し、それが抗争に発展することもあった。その対立が原因で、ある日チウラは鉄パイプで襲撃される。戦前に描いた「サクラメントバレーの日没」には、人間の狂気が渦巻いている。沈みゆく太陽は、全てを焼き尽くすかのように燃え盛り、容赦がない。襲撃を暗示しているようだ。

 昨年秋、チウラの長男ギョウをセントルイスに訪ねた。世界的建築設計事務所HOKの「O」に創設者のひとりとして名前を刻む91歳は、スポーツの世界ではNFLのセントルイス・ラムズの本拠地エドワード・ジョーンズ・ドームを設計したことで知られる。

 当初、ギョウは屋根の中央部分を開閉式にする予定だった。いわゆる天窓である。だが、予算の都合で設計は変更を余儀なくされた。もしギョウのデザインが実現していたら、父チウラが描いたヨセミテの宵の月のように、月光が温かく舞台を包んでいたに違いない。

 戦後70年。語られていない歴史の節目に、必ずスポーツは存在感を示す。

<この原稿は15年1月7日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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