ヘルツォーゲンアウラッハというニュルンベルク郊外の小さな街で育った少年は、早くからその将来を嘱望されていた。地元のニュルンベルクはもちろん、南部のビッグクラブ、バイエルンMも獲得に乗り出し、激しい争奪戦は西ドイツ国内でもちょっとしたニュースになったという。
 結局、彼は地元から遠く離れた中西部の名門ボルシアMGへの入団を決める。彼の親はプーマ社に勤めており、当時このメーカーの象徴的存在だったボルシアMGへの入団は、既定路線となっていたのである。

 6年後、バイエルンMに引き抜かれた彼は、“ベッケンバウアー以降最も偉大なキャプテン”と呼ばれる存在となり、代表でも不動の地位を築き上げる。そして90年のW杯イタリア大会では、母国を3度目の世界王者へと導いた。

 彼の名前はローター・マテウス。代表キャップ150を記録したドイツの伝説的な英雄に、先日、ついに遠藤保仁が代表数で肩を並べた。

「まさか、ここまでの選手になるとは思わなかった」

 遠藤のルーキー時を知る横浜フリューゲルスのOBたちは、いまも一様に口を揃える。実は、わたしも同感である。独特というか、不思議な感覚を持った選手であることは一目瞭然だったが、圧倒的な突破力を売り物にしてきた歴代の鹿児島実OB、たとえば前園真聖や兄・彰弘などに比べると、“九州らしさ”が希薄すぎるような気がしたのだ。

 ガンバで揺るぎない地位を築き、代表の常連となってからも、まさか代表で150回もプレーするほどの存在になる、と予想した人は少数派だったに違いない。何しろ、26歳だった06年のW杯ドイツ大会で、彼はただの1試合も試合に出ることができなかったのである。すでにマラドーナとしのぎを削るまでになっていた同時期のマテウスとの差は、歴然としていた。

 ただ、登録されたフィールドプレーヤーの中で唯一出場機会を与えられなかったドイツでの屈辱は、遠藤にとって大きなエネルギーとなったようだ。南アフリカまでの4年間、彼はどんどんとその存在感を増していった。

 南アフリカ以降も代表における遠藤の地位は揺るがず、キャップ数は順調に増えていった。しかし、多くの人は、「ブラジルまでだ」と思っていただろうし、実は、わたしがそうだった。

 いま、再び予想は裏切られつつある。

 代表150回目をプレーしたころのマテウスには、明らかな衰えが見られた。遠藤は違う。彼の感覚は、依然として代表に不可欠なものであり続けている。

 次のW杯を考えれば、遠藤に頼っていいのか、という見方は当然あるだろう。だが、実はそうした見方こそが、彼の動力源なのかもしれない。「まさか」は、どうやら、まだ続く。

<この原稿は15年1月15日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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