加藤裕之(コナミスポーツクラブ体操競技部監督)<後編>「改善を重ねてきた指導方針」
チームに日本代表クラスの選手を多く抱え、自らも日本代表コーチとして2008年北京、12年ロンドンと2大会連続で五輪に帯同した加藤裕之。彼が指導者としてのスタートを切ったのは、現役引退を表明した翌年、1993年のことだ。20年以上の指導者人生を振り返り、「若い頃とは指導の仕方は変わった」と語る加藤。果たして、指導方針はどう変化したのか。
埼玉県にあるコナミスポーツクラブ体操競技部の体育館。中に入ると、内村航平をはじめ、所属選手たちがそれぞれのペースで練習に励んでいた。加藤はその様子をじっと見つめていた。時折、選手やコーチと話をする場面も見られたが、加藤からのアプローチはほとんど皆無に等しかった。その理由を訊くと、「以前は余計なところまで口を出していたんです」と意外な答えが返ってきた。
「特に現役を終えてすぐの頃というのは、まだ自分自身に感覚が残っていましたから、“自分だったら、こういうふうにやる”という考えを、積極的に選手に伝えようという姿勢で指導していたんです。自分の代わりにというわけではありませんが、自分自身に当てはめながら指導して、それを選手ができるようになる。そういうところで教える楽しさみたいなものを感じていたんです」
しかし、そのうちにひとつの枠に固定された指導が、果たして本当にいいのか、という疑問が沸き起こってきたという。
「選手にもいろいろなタイプがいますから、自分の感覚だけで教えていては、上達しない選手もいるのでは、と思い始めたんです。実際、世界を見ても、いろいろなアプローチをしている。そういうところから“答えはひとつではないな”と」
そして、もうひとつ、加藤が自ら口出しをしない理由がある。それは選手の意欲を削がないためだ。
「指導者は見ていると、いろいろと言いたくなるものなんです。でも、選手の立場にしたら、それが返ってマイナスになることもあると思うんです。例えば、子どもが自分から勉強しようかなと思っていたところに、親から『早くやりなさい』と言われると、『今やろうとしていたのに……』と、せっかく起きたやる気が失われてしまうことがありますよね。それと同じだと思うんです。大事なのは、選手自身で必要と感じてやろうとすること。指導者はそういう気持ちに向かっていけるように、陰ながらサポートすることが重要だと思います」
意識改革を促した荒治療
コナミスポーツクラブは日本代表クラスの選手が多く占めるエリート集団というイメージが強いが、実際は「高校や大学の2番手、3番手のほぼ無名の選手が入ってきて、そこでどれだけ上達するかというチーム」だと加藤は言う。だからこそ指導者の手腕が問われる半面、選手の成長は指導者冥利に尽きる。
入社後、著しい成長を遂げたひとりが、現在のチームキャプテン、小林研也だ。高い素質を持っているものの、学生時代までは安定感に乏しく、なかなか満足のいく演技ができずにいた。その最大の要因は、自分の感覚だけを頼りにしていたことにあった。
「小林は、入社当初は練習でも細かいことを考えずにやっているところがありました。そのために試合になると、調子の良し悪しに左右されて、本人も当日になってみないとわからないという感じだったんです」
小林にとって転機となったのは、2008年のことだ。5月、岡山市の桃太郎アリーナでは、北京五輪の選考会を兼ねたNHK杯が行なわれていた。しかし、そのステージに小林の姿はなかった。前年秋の1次選考会を兼ねて行われた全日本選手権で成績がふるわず、4月の2次選考会、そしてNHK杯に出場することができなかったのだ。しかし、加藤は小林を岡山の会場に帯同させた。荒治療とも思えるその理由を、加藤はこう述べた。
「緊張感が漂う独特の雰囲気を味わわせたかったですし、落ち込んでいる場合ではなく、そこから次に向けてのスタートを切るんだということを、小林に意識させたかったんです」
果たして、張りつめた緊張感の中で行なわれた4年に一度の戦いを目の前にして、小林は意欲を掻き立てられたのだろう。その後、加藤の目には明らかにそれまでとは違う小林の姿があった。
「しっかりと考えながら、自分の演技をつくりあげていくようになっていきましたね」
2年後、期待通りに成長した小林は、初めて日本代表に選出され、オランダ・ロッテルダムで開催された世界選手権に出場。その2年後に東京で行われた世界選手権にも連続出場し、いずれも男子団体銀メダルに貢献した。
個人競技にも不可欠な結束力
加藤が監督として率いるコナミスポーツクラブは、全日本体操競技団体選手権大会において、ここ10年で4度優勝しており、13、14年は初めて連覇を達成した。その背景にはチームの「結束力」があると加藤は言う。
「体操は個人競技なのですが、決してひとりで強くなれるわけではないんです。周りからの刺激があってこその強さなんですよ」
加藤が結束力の重要性を感じ始めたのは、勝てない時代が続いた時期だったという。今や国内トップチームとして君臨しているコナミスポーツクラブだが、09年に初優勝するまではなかなか頂点に届かなかった。
コナミスポーツクラブが大和銀行の体操クラブを継承するかたちで、体操競技部を創設したのは03年。大和銀行の監督を務めていた加藤は、そのままコナミスポーツクラブの監督に就任した。大和銀行の監督時代、加藤は4度、チームを優勝に導いている。ところが、コナミスポーツクラブの監督となって以降、優勝から遠ざかっていた。さすがに焦りもあったという。
「とにかく何とかしなければ、という気持ちでした。それでいろいろと考えて、個々の力を伸ばすには、チーム全体での底上げが必要だと思いました。そのためには、個人でバラバラにやっているのではなく、結束しなければならないと」
実際、チーム方針の柱に「結束力」を据えるようになって以降、09、11、そして13、14年と優勝している。加藤の指導による「結束力」の賜物であることは言を俟たない。
現在、コナミスポーツクラブには日本体操協会の強化指定選手が4名所属する。これは男子では日本体育大学、徳洲会体操クラブと並んで最多である。それだけに、来年のリオデジャネイロ五輪では04年アテネ以来となる団体金メダルを獲得し、「体操ニッポン」の完全復活を目指す日本体操界にとって、同クラブへの期待は決して小さくはないはずだ。そして、その彼らを率いる加藤の手腕もまた、「体操ニッポン」復活に欠かすことはできないのである。
(おわり)
<加藤裕之(かとう・ひろゆき)>
1964年2月8日、静岡県生まれ。コナミスポーツクラブ体操競技部監督。筑波大学卒業後、大和銀行に入社し、体操部に所属する。89年の世界選手権では、世界で初めて平行棒での月面宙返りを披露。92年の全日本選手権では、日本人として初めてつり輪での伸身新月面宙返りを決める。同大会を最後に現役を引退。翌年からは指導者の道を歩み始め、現在に至る。
(文・写真/斎藤寿子)
埼玉県にあるコナミスポーツクラブ体操競技部の体育館。中に入ると、内村航平をはじめ、所属選手たちがそれぞれのペースで練習に励んでいた。加藤はその様子をじっと見つめていた。時折、選手やコーチと話をする場面も見られたが、加藤からのアプローチはほとんど皆無に等しかった。その理由を訊くと、「以前は余計なところまで口を出していたんです」と意外な答えが返ってきた。
「特に現役を終えてすぐの頃というのは、まだ自分自身に感覚が残っていましたから、“自分だったら、こういうふうにやる”という考えを、積極的に選手に伝えようという姿勢で指導していたんです。自分の代わりにというわけではありませんが、自分自身に当てはめながら指導して、それを選手ができるようになる。そういうところで教える楽しさみたいなものを感じていたんです」
しかし、そのうちにひとつの枠に固定された指導が、果たして本当にいいのか、という疑問が沸き起こってきたという。
「選手にもいろいろなタイプがいますから、自分の感覚だけで教えていては、上達しない選手もいるのでは、と思い始めたんです。実際、世界を見ても、いろいろなアプローチをしている。そういうところから“答えはひとつではないな”と」
そして、もうひとつ、加藤が自ら口出しをしない理由がある。それは選手の意欲を削がないためだ。
「指導者は見ていると、いろいろと言いたくなるものなんです。でも、選手の立場にしたら、それが返ってマイナスになることもあると思うんです。例えば、子どもが自分から勉強しようかなと思っていたところに、親から『早くやりなさい』と言われると、『今やろうとしていたのに……』と、せっかく起きたやる気が失われてしまうことがありますよね。それと同じだと思うんです。大事なのは、選手自身で必要と感じてやろうとすること。指導者はそういう気持ちに向かっていけるように、陰ながらサポートすることが重要だと思います」
意識改革を促した荒治療
コナミスポーツクラブは日本代表クラスの選手が多く占めるエリート集団というイメージが強いが、実際は「高校や大学の2番手、3番手のほぼ無名の選手が入ってきて、そこでどれだけ上達するかというチーム」だと加藤は言う。だからこそ指導者の手腕が問われる半面、選手の成長は指導者冥利に尽きる。
入社後、著しい成長を遂げたひとりが、現在のチームキャプテン、小林研也だ。高い素質を持っているものの、学生時代までは安定感に乏しく、なかなか満足のいく演技ができずにいた。その最大の要因は、自分の感覚だけを頼りにしていたことにあった。
「小林は、入社当初は練習でも細かいことを考えずにやっているところがありました。そのために試合になると、調子の良し悪しに左右されて、本人も当日になってみないとわからないという感じだったんです」
小林にとって転機となったのは、2008年のことだ。5月、岡山市の桃太郎アリーナでは、北京五輪の選考会を兼ねたNHK杯が行なわれていた。しかし、そのステージに小林の姿はなかった。前年秋の1次選考会を兼ねて行われた全日本選手権で成績がふるわず、4月の2次選考会、そしてNHK杯に出場することができなかったのだ。しかし、加藤は小林を岡山の会場に帯同させた。荒治療とも思えるその理由を、加藤はこう述べた。
「緊張感が漂う独特の雰囲気を味わわせたかったですし、落ち込んでいる場合ではなく、そこから次に向けてのスタートを切るんだということを、小林に意識させたかったんです」
果たして、張りつめた緊張感の中で行なわれた4年に一度の戦いを目の前にして、小林は意欲を掻き立てられたのだろう。その後、加藤の目には明らかにそれまでとは違う小林の姿があった。
「しっかりと考えながら、自分の演技をつくりあげていくようになっていきましたね」
2年後、期待通りに成長した小林は、初めて日本代表に選出され、オランダ・ロッテルダムで開催された世界選手権に出場。その2年後に東京で行われた世界選手権にも連続出場し、いずれも男子団体銀メダルに貢献した。
個人競技にも不可欠な結束力
加藤が監督として率いるコナミスポーツクラブは、全日本体操競技団体選手権大会において、ここ10年で4度優勝しており、13、14年は初めて連覇を達成した。その背景にはチームの「結束力」があると加藤は言う。
「体操は個人競技なのですが、決してひとりで強くなれるわけではないんです。周りからの刺激があってこその強さなんですよ」
加藤が結束力の重要性を感じ始めたのは、勝てない時代が続いた時期だったという。今や国内トップチームとして君臨しているコナミスポーツクラブだが、09年に初優勝するまではなかなか頂点に届かなかった。
コナミスポーツクラブが大和銀行の体操クラブを継承するかたちで、体操競技部を創設したのは03年。大和銀行の監督を務めていた加藤は、そのままコナミスポーツクラブの監督に就任した。大和銀行の監督時代、加藤は4度、チームを優勝に導いている。ところが、コナミスポーツクラブの監督となって以降、優勝から遠ざかっていた。さすがに焦りもあったという。
「とにかく何とかしなければ、という気持ちでした。それでいろいろと考えて、個々の力を伸ばすには、チーム全体での底上げが必要だと思いました。そのためには、個人でバラバラにやっているのではなく、結束しなければならないと」
実際、チーム方針の柱に「結束力」を据えるようになって以降、09、11、そして13、14年と優勝している。加藤の指導による「結束力」の賜物であることは言を俟たない。
現在、コナミスポーツクラブには日本体操協会の強化指定選手が4名所属する。これは男子では日本体育大学、徳洲会体操クラブと並んで最多である。それだけに、来年のリオデジャネイロ五輪では04年アテネ以来となる団体金メダルを獲得し、「体操ニッポン」の完全復活を目指す日本体操界にとって、同クラブへの期待は決して小さくはないはずだ。そして、その彼らを率いる加藤の手腕もまた、「体操ニッポン」復活に欠かすことはできないのである。
(おわり)
<加藤裕之(かとう・ひろゆき)>
1964年2月8日、静岡県生まれ。コナミスポーツクラブ体操競技部監督。筑波大学卒業後、大和銀行に入社し、体操部に所属する。89年の世界選手権では、世界で初めて平行棒での月面宙返りを披露。92年の全日本選手権では、日本人として初めてつり輪での伸身新月面宙返りを決める。同大会を最後に現役を引退。翌年からは指導者の道を歩み始め、現在に至る。
(文・写真/斎藤寿子)