レベルの違いはあるにせよ、これは「グアルディオラか、モウリーニョか」という問題なのだと思う。アジア杯における日本代表の戦いについて、である。
 わたしは、全試合で相手を圧倒した日本の戦いぶりを評価している。それは、わたしがヨハン・クライフを祖とし、グアルディオラが進化させた、機械仕掛けのように正確なサッカー“ティキタカ”の熱烈な信奉者だから、である。
 だが、“ティキタカ”を大いに苦しめ、時に打ち破ってきたのが、一時はバルセロナのスタッフでもあったモウリーニョだった。対バルサ戦に限り、彼は内容を度外視したとも取れる戦術を取り、“アンチフットボール”との批判と引き換えに結果を手にした。

 奇しくもモウリーニョの誕生日でもある1月26日、一般紙に「“いい試合”よりも勝つ手段を磨け」という記事が掲載された。「パスをつなぎ、確実にゴールに近づくこと」は「勝つ手段として必ずしも正しくない」とし、アギーレ監督は「ボール保持率偏重の意識を変える」努力をすべきだというのが記事の趣旨である。

 実に興味深い。

 わたしは、アギーレ監督が「ボール保持率偏重」主義者だとは思わない。もし彼がグアルディオラやクライフと主義を完全に同じくする人間であれば、GKには西川が起用されていなければおかしい。なにしろ、監督時代のクライフは、GKのフィード力を重視するあまり、フィールドプレーヤーをGKに転向させたほどだったからである。

 従って、わたしがアジア杯での日本に覚える不満は、ボール保持率が高い割に点が奪えなかったこと、ではない。なぜもっとボール保持の率と質を上げられなかったのか、である。

 バルセロナにティキタカが根付いた理由として、クライフはカタルーニャの勤勉な民族性が大きかったことをあげている。他の地域ではおそらく実現不可能だったであろう、とも。

 なるほど、アンダルシアに比べれば、カタルーニャの人々は勤勉かもしれない。けれども、「1週間で届く」と言われたベッドを3カ月待つことになった人間からすると、彼らの勤勉性が日本人を上回るとは思えない。

 なので、わたしは信じている。日本人ならば、バルセロナでもできなかった、保持率85%以上のサッカーを実現できるのではないか。スペイン製よりも、さらに緻密で美しい機械仕掛けのフットボールを完成できるのではないか、と。

 おそらくはアジア杯を闘った選手の中でも、今後の道筋に関しては意見が分かれていることだろう。大いに結構。自分たちの進む道は、自分たちで決めていってもらいたい。

 グアルディオラか、モウリーニョか。さらなる保持率の追求は理想か、それとも妄想か。

 さて、あなたは?

<この原稿は15年1月29日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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