監督探し、選びは結婚と似ている。吟味する側は、吟味されもする。こちらが望んでも相手が望まない場合があれば、その逆もある。徹底的に相手の身辺調査をする人もいれば、まったくしない人もいる。
 アギーレ監督の解任について、協会の任命責任を問う声が大きくなっている。正直、「なぜこのタイミングで?」という疑問は残る。ただ、結婚に際して相手の身辺調査をまったくしなかった人間としては、いささか気の毒に思えてくる。

 いうまでもなく、八百長は犯罪である。日本のサッカーでは一度も起きたことのない犯罪である。監督を選定するに当たって、犯罪歴の有無を探らなかったことが、解任につながるほどの落ち度になるとは、わたしにはとても思えない。

 そもそも、もしアギーレ監督が潔白なのであれば、自分の商品価値を落とすような疑惑についてあらかじめ語るはずもない。もし有罪なのであれば、なおさらいうはずもない。この件に関して言えば、協会は完全な被害者であるとわたしは思う。

 この時期での解任で、W杯以後の半年が無駄になった、という声もある。そんなことはない。アギーレ監督は確かに能力のある人物ではあったが、アジア杯で闘ったチームは彼がつくり上げたチームではない。

 ザッケローニ監督のチームである。

 アギーレ監督がやったのは、前任者が築き上げたチームを土台……というよりそのまま拝借し、そこに若干のオリジナルを付け加えた、ということ。素晴らしいポテンシャルを持ちながら、細かな采配のお粗末さによって惨敗したブラジルでのチームに、駒不足のチームをやり繰りで勝たせてきた人物の手腕が加わった――それがアジア杯での日本代表だった。

 ゆえに、ボール保持率を重視し、ザックと同じ方向性を向く監督が跡を継ぐならば、アギーレ監督の半年は決して無駄ではないし、ゼロからのスタートということでもなくなる。

 少々心配なのは、新しい監督を選ぶ条件として「日本をリスペクトしてくれる人物」といった言葉が洩れ聞こえてくることである。

 確かに、以前は日本を見下し、自分たちのやり方を押しつけるだけの外国人指導者も珍しくはなかった。わたし自身、ある外国人監督に「日本人は12歳ではないし、あなたはマッカーサーではない」とかみついたこともある。

 ただ、いまや代表選手のほとんどは海外でプレーし、日本もW杯の常連となった。尊敬を勝ち得るまではいっていないかもしれないが、侮蔑の対象ではもはやない。

 監督選びは、ビジネスであり契約作業である。いまの日本は、契約先に求める条件として「自社を尊敬してくれること」と公言しているに等しい。わたしならば、自社の発展のためには、まず「こちらが尊敬できる相手」を探すが、さて。

<この原稿は15年2月5日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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