5選を果たした4日後、FIFA会長ゼップ・ブラッターが、唐突に辞任を表明したのは、汚職事件にからんで自らの外堀が埋められつつあると観念したからだろうか……。
 ブラッターに関していえば、W杯史上、初の共同開催となった02年日韓大会でも重要な役回りを演じている。FIFAの事務総長だったブラッターから、長沼健日本協会会長宛てに手紙が届いたのは、96年5月30日、02年大会開催地が決定する前々日のことだ。<韓国サッカー協会はFIFA理事会による要請があれば、上記イベントの共催の可能性について考える、と述べました>。韓国は理事会が提案した共催についてのむ可能性がある。さて日本はどうするんだ、との踏み絵である。

 長沼ら招致委員会幹部はチューリッヒ市内のホテルで票読みを重ねていた。実はこの手紙が届く少し前にブラッターは電話で招致委実行委員長の岡野俊一郎に手紙と同様の打診をしている。以下は同席していた衛藤征士郎招致議連幹事長兼事務総長から得た証言。「僕は言ったんだ。“そんな大事なことを口頭で決めてはダメ。文書にして持ってこさせなさい”と」

 韓国は日本より4年も遅れて02年大会の開催地に名乗りをあげた。いわば後出しジャンケンだ。招致活動を牽引したのがFIFA副会長にして大韓サッカー協会会長の鄭夢準である。出遅れを取り戻すため、鄭は日本の後見人であるFIFA会長ジョアン・アヴェランジェと敵対していた欧州サッカー連盟と組み、劣勢を挽回していった。敵の敵は味方という構図である。

 当時、W杯開催に関するFIFAの規約に共同開催(Co-hosting)という文言はなかった。なぜ、日本は受け入れたのか。再び衛藤。「FIFAの提案を拒否し、単独開催投票に持ち込んだ場合、選挙で負ける可能性があった。韓国がFIFAの指示に従うと言っている以上、我々だけが突っ張ねるわけにはいかなかった」

 ミステリアスなのがブラッターの行動である。岡野が届けた返信はアヴェランジェに宛てたものだが、直接、ブラッターが受け取り、自身でサインをしている。アヴェランジェのサインはどこにもなかった。

 招致レースをリードしていた日本にとっては、痛恨のドローとなった韓国との共同開催。ブラッターの暗躍は、いったいどこまでアヴェランジェの意向を受けたものだったのか。ボスへの背信はなかったのか。今に到るも謎だらけである。(肩書はすべて当時)

<この原稿は15年6月10日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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