春3回、夏2回。甲子園で5度の全国制覇を誇る横浜の渡辺元智監督が、今季限りでの退任を発表した。
 母校のコーチになったのが20歳の時だから、50年以上の人生を高校野球に捧げてきた。


 プロに送り出した選手は60人を超える。
 代表的な選手としては中田良弘、愛甲猛、鈴木尚典、多村仁志、松坂大輔、成瀬善久、涌井秀章、石川雄洋、福田永将、倉本寿彦、筒香嘉智、浅間大基……。
 地元の横浜DeNAは、現在、同校のOBだけで8人もいる。

 渡辺の野球人生は波乱に富んでいる。横浜高を卒業後、地元の神奈川大に進むが、右肩を痛めて野球を断念。千葉の親戚が経営するブルドーザーの修理工場で働いていた時期もある。

「ウチの野球部を手伝ってくれないか」
 コーチの依頼は、渡辺にとっては渡りに舟だった。

「自分の生きる道は野球しかない」
 若さゆえ、無茶もした。選手の手に包帯でバットを結わえ、貧血でぶっ倒れるまで素振りをさせたことも。絵に描いたようなスパルタ指導だ。

「相手より1時間でも多く練習させれば、それだけうまくなる」
 練習は質よりも量だと考えていた。

 笑えないエピソードもある。当時の野球部には不良が少なくなかった。
「やたら金回りのいいマネージャーがいておかしいと思っていると、そのマネージャー、勝手に僕の印鑑をつくって選手たちから部費を徴収していたんです。
 その他にも部室にあったグラブを売りつけたり、相手のチームに殴りかかっていくようなとんでもないのが、たくさんいましたよ」
 いつだったか、苦笑を浮かべながら、渡辺は振り返ったものだ。

 76年からは関東学院大に通い、教員免許を取得した。
「ワルを切り捨てるのが教育だとは思わない。僕たち教師がそういう生徒たちから何か教わることだってあるんですから」
 教壇に立つようになってからも、信念は一貫していた。

 その渡辺の座右の銘は「人生の勝利者たれ」――。
 決して野球のエリートコースを歩いてきたわけではない。道に迷い、多くの失敗を重ねながら、今の地位を築き上げた人物が口にする言葉だけに重みがある。
 勇退後は母校の「終身名誉監督」として、野球部の活動をサポートするという。

<この原稿は2015年6月12日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>


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