新しいものは古くなるが、いいものは古くならない。スタジアムとはそういうものだとわたしは信じている。こう言い換えてもいい。ドーム球場は古くなるが、甲子園は古くならない――。
 甲子園が完成した大正13年、日本にプロ野球は存在していない。にもかかわらず、この球場は設計の段階から東洋一の野球場たることを目標として造られた。野球をする場としての機能を持ち合わせているのは当然としても、それ以上の、日本人の夢や希望までをも詰め込もうとしたスタジアムだった。

 以降、日本には数えきれないほどの野球場が完成した。ただ、甲子園ほどの志をもって造られた球場は他になく、依然、甲子園は日本人にとって特別な存在であり続けている。利便性、快適性でははるかに甲子園を凌駕するドーム球場でさえ、甲子園という響きの前には輝きを失う。

「いまやスタジアムは、21世紀の教会なのです」

 数年前、視察に訪れたドイツの有名設計事務所で聞いた言葉も、強く印象に残っている。

「それは街のランドマークであり、人々が集まる求心力の源であり、訪れるたび、荘厳な気持ちにさせてくれるものなのです」

 欧米における教会の建設は、巨大な高層ビルを建てるのとは少し意味が違う。単に技術の枠を集めるだけではなく、芸術的、文化的な一面も持っていなければならない。それは、教会というものが、数多の施設とは異なり、後世まで長く残っていくものだからである。

 新しい国立競技場は何を目指すのだろう。純然たる工業製品を目指すのか、それとも、文化遺産となりうる建築物を目指すのか。

 バルセロナには、サグラダ・ファミリアという有名な教会がある。アントニオ・ガウディが設計したこの教会は、作家ジョージ・オーウェルに「世界で最も醜い建物の一つ」と酷評されたこともある。それでも、唯一無二のものを造り上げようとするガウディの理想が込められた教会は、いまや世界で最も多くの観光客を集める建築物の一つである。

 実はサグラダ・ファミリアには、バルセロナ市の財政悪化を理由に建築が中止されていた時期がある。ガウディといえども、予算の足かせから自由だったわけではない。

 それでも、サグラダ・ファミリアの建設は再開された。声高に反対する人がいた一方、それに負けないぐらい、賛成する声もあったがゆえだった。

 いかに五輪のためといえども、血税を野放図に使っていいわけはない。だが、予算ばかり、機能ばかりを重視する思想から、サグラダ・ファミリアは生まれない。志なき1300億円のスタジアムには、白紙に戻された奇抜な前案以上に、無用の長物となる危険性がある。

 ちなみに、ガウディは敬虔なカトリック教徒でもあった。新スタジアムの設計者が、スポーツを愛する人間であることを強く願う。

<この原稿は15年7月23日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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