北京五輪の自転車競技に出場した日本選手団の帰国報告会が3日、都内で開かれ、男子ケイリンで銅メダルを獲得した永井清史(日本競輪選手会)をはじめとする10選手とチームスタッフらが出席した。同種目で日本勢初のメダルとなった永井は「次は国内での競輪で日本一を目指し、ロンドンでは日本一から金メダルを狙いたい」と早くも4年後に向けた決意を語った。
(写真:銅メダルを噛み締めて喜びを表現する永井)
 五輪の正式種目に採用されて3大会目、1948年、北九州で初めて競輪が行われて60年目の節目の年、日本発祥の競技にようやくメダリストが誕生した。「一番いいレースができた。悔いの残らない試合ができた」。ようやく実感が沸いてきたと話す銅メダリストは、あらためて自身の映像を見て、レースを振り返った。

 アテネでは出場権獲得に貢献しながら、永井は最後に代表から外された。五輪に賭けるため、今年の2月から競輪出場を取りやめた。当然、収入は激減。「アテネの悔しさを本番でぶつけられた」。強い思いが引き寄せたメダルだった。

「競輪が賭け事ではなく、立派なスポーツであることが日本で認知された」
 挨拶に立った日本自転車振興会の下重暁子会長はその快挙を称えた。一方で「日本には(国際仕様の)250メートルバンクがなく、選手たちは海外で勉強している。常に練習してもらえる環境づくりが必要」と今後の課題も口にした。会場にはヨーロッパ、オーストラリアの応援団がほとんどで、自転車競技に対する“熱”の違いも感じたという。

 実際、アテネで銀メダルを獲得したチームスプリントでは6位だった。44秒437とまずまずのタイムを出しながら、優勝した英国はそれをはるかに上回る43秒128をたたき出した。
 予選ではアクシデントもあった。一走の長塚智広の車輪が走行中に外れ、再レースとなったのだ。「滅多にないことが起きた。それは(結果に)関係なかった」と長塚は話すが、アンダーウェアとして競泳で話題になったレーザーレーサーと同じ素材を着用していたため、「締め付けがきつくて、再レースまでに足がしびれてしまった」。結果は予選6位通過。1回戦でドイツに敗れ、2大会連続のメダルはならなかった。
(写真:チームスプリント入賞の永井、渡邉、長塚、ポイントレース8位入賞の飯島)

「欧米との力の差を感じた」
 チームと個人でスプリント種目に出場した渡邉一成(日本競輪選手会)は、初めての五輪の感想を率直に語った。「イギリスは6年計画で40億円もの強化予算を出している。日本は数億円。サポート体制はもちろん、選手個々がスポンサーを集めるなどの活動が大事になる」。競技者の立場から4年先を見据えた行動の必要性を痛感した大会だった。「ただ参加する五輪ではなく、メダル争いのできる五輪にしたい」。永井とは同い年(25歳)の渡邉はロンドンでの雪辱を誓った。

 永井、渡邉らは11日から一宮競輪場で開催されるオールスター競輪に出場する。半年ぶりの競輪復帰となる永井は「競技用の自転車にずっと乗ってきたので、競輪用のフレームに慣れるのが大変」としながらも、「メダリストとしてヘタなレースはできない」と気を引き締めた。

 日本選手団のフレデリック・マニエ監督は「銅メダルがダイナマイトのような起爆剤となって、次のロンドン五輪でもっと素晴らしい結果が出るよう、一丸となって頑張っていきたい」と帰国報告を締めくくった。自転車競技の強化には、競輪を含めた国内での盛り上げが不可欠だ。「素材はいっぱいいる。金メダルも不可能ではない」(下重会長)。2012年へのレースはもうスタートがきられている。