かつてアマチュア球界ナンバーワン右腕と呼ばれた男がいる。山田秋親。各球団が争奪戦を繰り広げた結果、逆指名で福岡ダイエー(現ソフトバンク)に入ったのは9年前のことだ。ところが、順風満帆だった野球人生はここから暗転する。故障もあって期待通りの働きができず、もがき苦しんだ。そして、戦力外。どん底に叩き落とされた人間が復活の場として選んだのがアイランドリーグだった。1年間の福岡レッドワーブラーズでの生活を経て、このほど千葉ロッテへ入団を決めた31歳にNPB復帰までの道のりを語ってもらった。
――NPB復帰、おめでとうございます。ロッテから獲得の連絡があった時には、どんな気持ちでしたか?
山田: 1年間の浪人生活が報われた思いがしました。その前にロッテの練習に参加させてもらって、最終日には球団の方から「おそらく大丈夫だろう」と言われていたのですが、正式に連絡が来たのは2日後。それまでは落ち着かない気分でした。

――ロッテでは何かテストらしいものはあったのですか?
山田: いや、基本的には連日、ブルペンで投球練習をしただけです。はっきりとしたテストでない分、常に見られているような独特の緊張感がありました。とにかくアピールしなくてはいけないので、ケガが治って毎日、問題なく投げられるところ、ボールにキレがあるところを見せようと思いながら投げました。

――その前にはNPBの合同トライアウト(11月11日、甲子園)も受験しました。4人の打者に対して2奪三振と好投でした。
山田: スピードがMAX141キロだったので、もう少し出したかったですね。昨年末、右肩を手術したので、ストレートの威力を戻すことを目標にしていますが、まだスピードは元に戻っていない。

――ソフトバンクを戦力外になったのが昨シーズンオフ。直後に右肩関節唇の手術を受けました。まだ現役続行に未練があったと?
山田: 手術自体は戦力外になる前から考えていました。それまで痛みを抱えながら、だましだまし投げていたのが、去年の夏ごろから急激に痛さが増してきた。本当にソフトバンク時代はケガばかりで期待に応えられず、苦しかったです。もちろん戦力外を受けたことで、手術をしない選択肢もありました。でも、自分自身が納得できなかった。「これで辞めたら悔いが残る。もう一花咲かせたい」。そんな思いもあって、予定通り手術をし、翌年に賭ける決意をしたんです。

――昨年11月に手術を行い、まずはリハビリから復帰への階段を昇り始めます。レッドワーブラーズの練習に参加したきっかけは?
山田: 1月中旬からボールを握れるようになって、一番困ったのはキャッチボールの相手がいないこと。ひとりでのリハビリは限界があると感じ、ホークスの関係者の紹介もあって練習に参加させてもらうことになりました。最初は5メートルくらいのキャッチボールから始め、気温があったかくなるにつれて徐々に距離を伸ばしていきました。

――アイランドリーグの選手たちは、その多くが高校、大学と無名だった存在です。しかもNPBと比べれば、練習環境も雲泥の差。とまどいはありませんでしたか?
山田: 若い選手も多いですし、最初はチームに溶け込めるか不安がありました。ところが、いざ行ってみると彼らからどんどん話しかけてくれた。中には「僕も肩の手術をしています」と打ち明けてくれる子もいて、リハビリしやすい状況をつくってくれました。これは本当にありがたかったです。
 確かに独立リーグの環境はNPBとは全く違いますが、今までが贅沢すぎただけ。初心に戻って一からやり直すにはいい場所だったと思っています。恵まれない状況にいるからこそ、「またNPBへ戻りたい」という気持ちもより強くなりました。

――リハビリの間に心が折れそうになったことは?
山田: 5、6月頃はきつい時がありましたね。遠投をしていても、どうも肩がしっくりこなくて……。「こんな状態で治るのか」と不安が募りました。そんな時、チームメイトの存在が大きな支えになったんです。みんなで楽しく練習をしていると、そういった不安が少しでもまぎれる。もし1人でリハビリを続けていたら耐えきれなかったかもしれません。

――夏場に本格的な投球練習を再開し、9月1日に選手登録。4日の徳島インディゴソックス戦で1回をパーフェクトに抑えます。ひさびさの実戦マウンドはいかがでしたか?
山田: 緊張しました。と同時にうれしかったです。投球練習を始めた頃には肩の不安もすっかりなくなっていたので、あとは試合を重ねてステップを踏んでいくだけだと感じました。

――9月21日の徳島戦では、先発で6回を無失点。これもひとつのステップになったでしょう。
山田: そうですね。森山(良二)監督から「長いイニングも投げてみたら」と提案されたので、1週間ほど調整の時間をいただいてマウンドに上がりました。先発は本当に久しぶりだったので、気持ち良かったです。

――そしてリーグ選抜の一員としてフェニックス・リーグへ。元阪神の伊代野貴照投手(当時高知)とともに主にリリーフで好内容をみせました。
山田: 最後の巨人戦は先発でボロボロでしたけどね(苦笑)。ルーキーの大田(泰示)君にもホームランを打たれてしまいました。ただ、NPB相手に投げたことで、「復帰すればやれる」という手ごたえをつかめました。特にクライマックスシリーズに向けて主力選手が調整中だった北海道日本ハム相手に2回をパーフェクトに抑えたのは自信になりましたね。ひさびさの連投で不安もある中、稲葉(篤紀)さん、金子誠さんといったバッターを打ち取った。壁を乗り越えた気がしました。

――アイランドリーグを含め、元NPBの選手が日本の独立リーグを経て復帰を果たしたのは初めてのケースです。戦力外を受けた選手たちにも勇気を与えたのではないかと思います。
山田: だからこそ第1号がこけてしまったら話にならない。おそらくロッテでは中継ぎを任されると思うので、与えられたところでしっかり投げられるようにオフの間に準備します。キャンプは2軍スタートのようですが、早く1軍に上がって、投げている姿をみなさんにお見せしたいです。今回、登録名も心機一転、「秋親」にしました。過去のことはリセットして、ここから新たな野球人生をスタートさせたいと思ってます。

――山田投手にとって、アイランドリーグはどんなところでしたか?
山田: 若い選手たちはみんな野球が好きで、その一生懸命さには刺激を受けました。僕も「野球が好き」という思いを再確認できた場所ですね。アイランドリーグがあったからこそ今がある。残念ながら球団は活動休止になってしまいましたが、監督、コーチ、チームメイトには感謝の気持ちでいっぱいです。


山田秋親 (やまだ・あきちか)プロフィール>
1978年9月19日、京都府出身。北嵯峨高を経て立命館大時代は最速153キロをマーク。2000年のシドニー五輪では日本代表に選ばれた。同年のドラフトで福岡ダイエー(現ソフトバンク)を逆指名。ルーキーイヤーに完封勝利をおさめ、徐々に登板機会も増えるが、04年に中継ぎとして6勝(2敗1S)したのが最高。以降はケガに泣かされ、08年限りで自由契約となる。その後、右肩の手術を受け、今季は福岡レッドワーブラーズの練習に合流。リハビリを乗り越え、9月に選手契約を結んで実戦復帰すると、10月のフェニックス・リーグでは6試合に登板した。NPB合同トライアウトを経てロッテの練習に招かれ、11月20日に入団決定。NPBでの通算成績は98試合、15勝11敗1S、防御率4.75。

(聞き手:石田洋之)