西武・岸孝之「クールなエースの熱き心」(後編)

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 では、“21世紀の魔球”とも呼べるレアボールはいかにして生まれたのか。
 岸によれば縫い目に沿って中指と親指をかけ、その間からボールを抜く。その際、人指し指は使わない。手首をひねったり、こねたりもしない。
「誰かに教わったわけじゃないんです。小学生の頃、遊びで投げているうちに覚えた。最初はポワーンとした軌道でした。少年野球では審判から“カーブはダメだ”ってよく注意されましたけど(笑)」
(写真:カーブの握り。岸自身は「そんな特別なボールだとは一切思っていない」と言う)
 全日本軟式野球連盟では、学童野球に関する事項として「学童部の投手は変化球を投げることを禁止する」との規定がある。おそらく、これに抵触したのだろう。
 日本野球の父・正岡子規はボールゲームを「球技」ではなく「球戯」と名付けた。球と戯れる。ボールゲームの原点は、ここにある。レアボールの“発明”の源泉が岸少年の遊び心だったとしたら、これほど痛快な話はない。

 宮城県仙台市の出身。東北地方、とりわけ甲子園を目指す宮城の野球少年は東北高、仙台育英高に憧れる。ところが岸が進んだ高校は県立の名取北。春夏通じて甲子園には一度も出場したことがない。
「彼は最初、野球部にも入っていなかったんですよ」

 初めて聞く話だ。語るのは当時の野球部監督・田野誠。
「なんでも坊主になるのが嫌で、最初は様子を見ていたようです。だけど私の方針は“短髪ならいい”だから、それを知って安心して入ってきた。
 印象? とにかく体が小さかった。身長は160センチちょっとで体重は49キロだったかな。まるで少年野球のピッチャーみたいでした。体重にいたっては女子マネジャーよりも軽かった」

 モヤシみたいな体ではあったがキラリと光るものもあった。田野が振り返る。
「球は遅いんですけど、きれいな球筋のボール。真っすぐがインコースにポンとくる。コントロールもよかった。入学当初、球種はストレートとカーブの2種類だけ。本人はスライダーを覚えようとしていましたが、途中で“ヒジが痛い”と言い始めた。そこで僕は言いました。“変化球を覚える前に、まず真っすぐを磨け”と。
 ところが、どこかで練習していたんでしょうね(苦笑)。スライダーを3年春に投げ始めたら、右打者がつんのめったような空振りばかりする。春の大会では延長12回で柴田高に負けたんですが18も三振をとりましたよ」

 当時、東北の高校球界には、その後、ドラフト1巡目でヤクルトに入団する高井雄平(東北)が君臨していた。150km/hのストレートを放る本格派のサウスポーだ。
 今季まで独立リーグの長崎セインツでプレーしていた安田慎太郎は仙台高時代、高井と対戦した経験を持つ。高校卒業後、彼は東北学院大に進み、岸とチームメイトになる。
「大学に入った頃、岸はまだ140キロも出ていなかった。だけど手元でグっと伸びてきた。ボールの“伸び”に関しては高井よりも岸の方が上でした」

 岸の運命の歯車がコトンと音を立てたのは高3夏の県予選だ。名取北は初戦で同じ県立校の多賀城と対戦した。
 大学の関係者やプロのスカウトが身を乗り出して熱い視線を注ぐような試合ではない。だが、なぜかスタンドには東北学院大の監督・菅井徳雄がいた。自らの息子が出場していたからだ。

 そのご子息に岸はデッドボールを投じてしまった。許したランナーは、そのひとりだけ。5回コールドながらノーヒットノーラン。
「素晴らしいピッチャー。もう一目惚れですよ」
 試合後、すかさず菅井は名取北のグラウンドに直行した。岸の帰りを3時間も待ち、監督の田野に挨拶をした。
 
 後日、筋を通して、改めて話を持ち込んだ。
「ウチにきていただけませんか?」
 岸の父・孝一は社会人野球の七十七銀行で監督経験もある。野球を知っているだけに最初は難色を示した。
「ウチの子はプロに行けるレベルではありません。野球だけでなく就職につながるような勉強もさせたいんです」
「いや、ウチは勉強もやらせます」

 東北学院大は仙台六大学野球連盟に所属する。六大学発足当初の1970年代は優勝の常連校だったが、やがて台頭してきた東北福祉大に王座を奪われる。
 岸の回想。
「福祉大とウチの対決は、高校野球にたとえていえば、甲子園を目指すチームとそうじゃないチームくらいの差があった。選手を見ても全国人対東北人というイメージ。福祉大は関西の強豪校出身者が多いから、デッドボールを当てただけで関西弁のヤジが飛んできた。もうそれだけで、こっちはビビってしまいました(笑)」
(写真:2年の春に福祉大を完封した試合が自信になった)

 岸が大学4年の春、学院大に35シーズンぶりの優勝のチャンスが巡ってきた。学院大の大黒柱はもちろん岸である。「東北人」の代表として「全国人」に立ち向かった。
 優勝の行方を決定づけた福祉大戦での3連投は、今でも東北球界では語り草だ。初戦は1対6で負け。岸は7回6失点の内容だった。続く2戦目は3点リードで迎えた8回1死満塁のピンチでリリーフし、後続を断った。8対7で勝利。驚くことに岸は3戦目も先発のマウンドに上がったのだ。延長11回、1対1の引き分け。

 さぁ、困った。いくらアマチュア野球とはいえ、3日で計332球も投げている。4連投は過酷にも程がある。
 しかし、岸の力を借りなければ35シーズンぶりの優勝は露と消えてしまう。4年生全員が集まり、岸に直談判した。
「頼む。もし勝っていたら、最終回だけでいいから投げてくれ」

 黙って聞いていた岸は「わかった」と言って、深くうなずいた。
 同期の安田は振り返る。
「最終回までリードされていたので、結局、岸の出番はありませんでした。でも、皆、岸の思いを共有していた。何とかアイツの奮投に報いようと。僕は9回裏に同点打を放ち、最後はサヨナラ勝ち。しんどいはずなのに、アイツは一言も“キツイ”とは言わなかった。そういうヤツなんですよ」
 杜の都の青春グラフィティ。物語の中心には岸がいた。

 9月29日、今季最終戦で岸は10勝にたどりついた。入団以来、4年連続での2ケタ勝利は、あの松坂大輔(現レッドソックス)でもできなかったことだ。
「先発でやっている以上、最低でも10勝はしたいという思いは、ずっと持っています。前半だけで9勝して、そこから故障しただけに、あと1勝だけはどうしてもしたかった。ケガの最中にお世話になった人たちに感謝の気持ちを伝えるためにも……」

 しなる右腕。消える魔球。円月殺法ならぬ円月投法が切り裂く光と闇。「岸狂四郎」には月夜の美しい球場がよく似合う。

>>前編はこちら

<この原稿は2010年12月11日号『週刊現代』に掲載されたものです>
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