2010シーズン限りで現役を引退した元阪神の矢野燿大。彼は東北福祉大から1991年、ドラフト2位で中日に入団するも、97年オフには阪神へトレードされる。その時の悔しさをバネに阪神では正捕手の座を獲得した。フロントもチーム改革に動き、その甲斐あって、2002年までBクラスに沈んでいた阪神は、03年、05年にリーグ優勝を果たした。今やAクラスの常連となった阪神だが、果たしてどのようにしてチームの再建は行なわれたのか。当サイト編集長・二宮清純がその真相に迫った。
二宮: 2003年、矢野さんにとってはプロ入り後、初めて優勝を経験しました。しかも阪神としては1985年以来、実に18年ぶりの優勝でしたから、このシーズンは現役生活の中で最も印象に残っているのでは?
矢野: そうですね。自分自身、中日での最後のシーズンもあわせると、5年連続で最下位だったんです。それだけに嬉しかったですね。当時は優勝を目の前にして、神宮、ナゴヤドームと引き分けをはさんで5連敗と足踏みをした後、甲子園に戻ってきたんです。あの時の異常なほどのファンの多さと盛り上がりは今でも鮮明に覚えています。日本シリーズで福岡に新幹線で行った際にもファンが殺到して、それを避けるために駅の裏を通ったりしたんです。それまでそんなこと一度もなかったので本当に驚きました。

二宮: 優勝パレードもすごい人の数でしたね。
矢野: 当日は雨だったのですが、たくさんの人が来てくれて、僕としては一番の感動でした。パレードの前までは「ファンのため」という認識でいたのですが、実際にやってみたら「こんなに感動するものなんだ」と思いました。

二宮: それまでチームはずっとBクラスと低迷が続いていたわけですが、やはり野村克也さんが基礎を築き、星野仙一さんに代わってチームが変わったと。
矢野: そうですね。星野さんが監督に就任したのは大きかったですね。勝利に貪欲な方ですから、勝つために選手はもちろん、裏方さんも含めてチーム全体を盛り上げてくれました。だからこそ、選手の意識も高まったのだと思います。もう一つは、球団の方針が変わって外の血をどんどん入れるようになったこともチームが変わった要因のひとつだったと思います。選手にも競争心が芽生えました。

二宮: 99年には野村さんが監督に就任し、01年には片岡篤史をFAで獲得。さらに03年には星野さんを指揮官に迎え、FAで金本知憲を、トレードで下柳剛を獲得しました。これがチームを活性化させたと。
矢野: 低迷が続いていた時期でしたから、そういうことは必要だったと思います。

二宮: しかし優勝したその年、すぐに星野さんが監督を辞められたのには驚きました。
矢野: 僕自身もショックでした。選手たちは全く知らされていなくて、日本シリーズ開幕の数日前に初めて聞いたんです。ですから、選手たちの間ではより一層、「日本一になってやろう」という気持ちが強くなりました。でも、当時のダイエー(現福岡ソフトバンク)はあまりにも強すぎましたね。

二宮: なんといっても打線が強力でした。井口資仁、松中信彦、城島健司、それにズレータとバルデスもいました。
矢野: 9番バッターの鳥越裕介にもよく打たれましたからね(笑)。とにかくいい打線でした。

二宮: 阪神は2年後に岡田彰布監督の下、再びリーグ優勝します。この時は03年とはまた違った喜びがあったのでは?
矢野: 03年の時は、僕たちが勝って、さらに2位ヤクルトが横浜に負ければ優勝でした。だから自分たちの試合後、ベンチでヤクルトの試合を観ていなければならなかったんです。でも、05年は試合に勝った瞬間、一目散にマウンドの久保田智之のところに駆け寄っりました。そういうのに憧れていたので、本当に気持ちがよかったです。それに当時はJFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田)が確立されていましたから、守り勝ったという感じで、キャッチャーとしては嬉しかったですね。

二宮: 当時は井川慶(ヤンキース)もいて、個性的なピッチャーがたくさんいました。それだけに各ピッチャーに合わせてリードするのも難しかったと思います。その辺、うまく投手陣を束ねていました。
矢野: 自分自身、うまくリードできていたかどうかはわかりませんけど、心がけていたのは、僕がピッチャーに投げさせるのではなく、お互いを理解したうえでリードすること。そうすれば、バッターに対して2対1で攻めることができますから。ピッチャーとキャッチャーが力を合わせて、という気持ちでやっていました。

<現在発売中の『第三文明』2011年2月号では、さらに詳しいインタビューが掲載されています。こちらもぜひご覧ください>