13勝1敗2分。この交流戦、福岡ソフトバンクはセ・リーグ相手に圧倒的な強さをみせている。リーグでも首位を快走し、連覇に向けて視界は良好だ。その原動力となっているのが12球団一の打率.273を誇る強力打線。アレックス・カブレラ、小久保裕樹、多村仁志ら一発のある打者が並ぶ中、今季、横浜からFA移籍した内川聖一がしっかりクリーンアップの一角を占めている。ここまで打率.356はもちろんリーグトップ。史上2人目の両リーグ首位打者、日本人右打者では初のシーズン200安打、そして夢の4割……。新天地で打ちまくるヒットマシンに二宮清純が取材を試みた。
(写真:「(パ・リーグのエース級は)ここ一番に強い。ランナーは出ても点にならない」とセ・パの違いを語る)
 これを打たれては、ピッチャーはもう投げるところがない。当たった相手が悪かったと不運を嘆くしかあるまい。
 5月17日、セ・パ交流戦初戦。福岡ソフトバンクホークスは本拠地のヤフードームに広島東洋カープを迎えた。
 3対4と1点差に迫った8回裏1死二塁の場面でホークスのバッターは3番・内川聖一。広島はサウスポーの青木高広に代え、球威のあるセットアッパーの上野弘文をマウンドに送った。

 1−1のカウントで上野が投じたボールは内角のシュート。見逃せばボールだ。これを内川は腕をたたんで詰まりながらもレフト線に持っていった。
 値千金の同点タイムリー。普通の打者なら左に切れる打球が内川の場合は切れない。打たれるはずのないボールを打たれたピッチャーのショックはいかばかりだったか。

 2年前の2月、宮崎での出来事。当時、横浜に所属していた内川は第2回WBC日本代表候補に選出され、南国の地でバットを振り込んでいた。
 内川には近付いただけで心ときめく先輩がいた。シアトル・マリナーズのイチローである。ある日、勇を鼓して聞いてみた。

「イチローさん、わざと詰まらせて打つ時ってあるんですか?」
 イチローの答えは明快だった。
「あるよ。追い込まれた時に内角のボールをカーンとライトに引っ張って、ファウルを打ったところで、ピッチャーは何とも思わないんだ。オレはピッチャーに一番ダメージを与えられるような打球は何かをいつも考えている。詰まってグシャッとなってもヒットになる。これがピッチャーにとっては一番嫌なんじゃないか」

 目の前の霧が晴れた。それまで内川は「バットの芯で打つのが一番きれいなバッティング」と考えていた。バッティング練習でも快音を追いかけていた。
「でもイチローさんと話したことで、時と状況によっては打ち方を変えなければならないということがよくわかった。ものすごく勉強になりましたね」

 打率3割9分6厘(5月19日現在)。目下、パ・リーグのリーディングヒッターである。
 気の早い話だが、首位打者を獲れば横浜時代の2008年以来となり、両リーグでの戴冠だ。これは唯一の達成者、江藤慎一(故人、64年、65年=中日、71年=ロッテ)にまで遡らなければならない。

「チームが日本一を達成した上での首位打者。もちろん、これは強く意識しています。しかし、それ以上に欲しいのが最多安打の記録。打率は上がったり下がったりするものだけど、ヒット数は減らない。だから打率を守ろうという意識はないですね」
 打率よりも安打数。確かに野球観はイチローに近い。

 昨秋、内川は大きな決断を迫られた。横浜残留か、それとも新天地への移籍か。FA権を取得した内川にはソフトバンクと広島の2球団から誘いがあった。
 豊富な資金力を誇るソフトバンクは当然として、これまでFA市場の埒外にあった広島の参戦は驚きだった。広島からの使者は横浜時代、内川が師と仰いでいた石井琢朗だった。

「ウチに一枚、右の強打者が加われば打線に厚みが出る。上位を狙うにはオマエの力が必要なんだ」
 条件は3年契約6億円。インセンティブも含めると最大で7億5000万円。“身の丈経営”を旨とする広島にとっては破格だった。
「僕としてはびっくりするくらいの条件。正直、面くらった部分もありました」
(写真:交流戦では試合前に石井と話しこむ場面も)

 それでもソフトバンクを選んだ理由は何か。
「大分出身の僕にとって、プロ野球観戦といったら福岡ドームだった。今の監督の秋山(幸二)さんがセンターを守っていて、小久保(裕紀)さんがルーキーだった時代。FDH(福岡ダイエーホークス)のユニフォームは僕にとって憧れの的でした」

 球団会長を務める王貞治の言葉も胸にしみた。
「ウチとしては今のままのキミが欲しい。チームが変わるとか球場が広くなるとか言うと不安はあるだろうけど、キミがこれまでやってきた野球を続けてくれればいいんだ」
 自分がやってきた野球は間違いじゃなかった――。王の一言が背中を押した。

 内川に野球の基礎を教えたのは父・一寛(現大分県立情報科学高監督)である。一寛は大分・鶴崎工高で名を売り、法大ではベストナインに選ばれた。社会人野球の本田技研和光でもプレーした経験を持つ。
 父子鷹とはいっても星飛雄馬を育てた一徹のようにバシバシと顔を張ったり、卓袱台を引っくり返したわけではない。

「僕は彼を“野球バカ”にはしたくなかった。ちょうど聖一が10歳の時、Jリーグが発足し、大分にもトリニティ(現トリニータ)というクラブができた。“おい、皆サッカーやってんだぞ。オマエは、野球ばかりしてていいのか”と言ったこともありますよ」
 しかし内川少年は野球以外のスポーツには一切、興味を示さなかった。父親を尊敬し、大きな背中を追い続けた。

 話は変わるが、球界広しといえども内川ほどスイング音にこだわるバッターはいない。彼の場合、音のみならず、「音の鳴る位置」までチェックするのだ。
 耳を澄まさなくてもビューンよりはブンのほうが優れたスイング音であることは理解できる。ヘッドが遠回りせず、コンパクトに振り抜けている証拠だ。

 問題はどこでブンと鳴るかだ。内川は「ボールの当たる位置で音が鳴らなければ意味がない」と考えている。
「だってボールが当たらないところで、いくらバットを速く振っても役に立たないじゃないですか」

 では、いったいいつから内川は「音が鳴る位置」にこだわりを抱くようになったのか。
一寛は「物心がつく前ではないか」と推測する。
「私が高校野球の監督をしていた関係で首がすわらないうちから球場に連れていき、グラウンドで遊ばせていた。ここでたくさんの“野球の音”を聞いたはず。ここに原因があるような気がします」

 音楽の世界に「絶対音感」なる言葉がある。ノンフィクション作家・最相葉月さんの著作に詳しいが、要するに他の音と比較せず、単独で音名を認識できる能力を指す。これを身につけるにはなるべく早い時期に訓練を始めた方が有利だといわれている。
 内川がハイアベレージを残すことができるのは、この「野球版絶対音感」が備わっているからではないか。あたかも門前の小僧が習わぬ経を読むように、球場の小僧は習わぬ棒振りを覚えたのである。無形の英才教育とは、かくも恐ろしいものなのだ。

 中学を卒業した内川は父が監督を務めていた大分工高に進学する。一学年下に弟がおり、3人で甲子園に行くのが父子の夢だった。
 残念ながらその夢は果たせなかったが、高校通算43本塁打の大型ショートをプロのスカウトが放っておくわけがない。

 内川は当初、父の母校である法大進学を希望し、セレクションを受けて「内定」も取り付けていた。
 しかし、ドラフトで想定外の事態が起きる。横浜から1位で指名を受けたのだ。大学かプロか。板ばさみに遭ったのは一寛だ。
「当時の法大の監督は大分の先輩でもある山中正竹さん。一方、横浜の球団取締役も法大の先輩・野口善男さん。僕も随分悩みました。でも、最後に決断するのは本人。“オマエの人生なんだからオマエが決めろ”と……」

 本人はどうだったのか。
「最初は大学に進もうと思っていたのですが、それは逃げ道をつくることじゃないかと。“人生、一度は勝負を賭ける時がある”と思っていた。そして“ここが勝負の時だろう”と。甲子園に出られなかった悔しさを晴らしたいという思いもありました」

<この原稿は2011年6月4日号『週刊現代』に掲載された内容です>