セ・リーグの首位を走る東京ヤクルトの勢いがなかなか衰えない。投手陣では石川雅規、館山昌平と左右の2本柱を揃え、最後は林昌勇が締める。野手陣では新外国人のウラディミール・バレンティンが打率、本塁打でトップに立ち、ベテランの宮本慎也も元気だ。そして、何といっても4番に定着した畠山和洋の充実ぶりが光る。入団時から和製大砲と期待されながら伸び悩んでいた男が、飛躍を遂げた背景には何があったのか。二宮清純が取材した。
(写真:無精ひげの理由は「顔のふくらみを隠すため」と笑う)
 ギョロッとした目付きに無精ひげ。野武士の風貌をした男は丸太のような太ももにアイシング用のアイスバッグを乗せて神宮球場のクラブハウスに現れた。ソファーに腰を下ろすなり、それを右ヒザに巻き変えた。机の向こう側からチラリと視線をやると、畠山和洋は体に似合わない小さな声で言った。
「低く構えるので下半身が疲れやすいんです。こんなこと人生で初めて。でも痛みもないし、プレーに支障はありません。ただ、(右足は)軸足だから早めにケアしておかないと……」

 開幕5試合目から東京ヤクルトスワローズの4番に座り、ここまで(5月26日現在)打率3割4厘、6本塁打、20打点の好成績を残している。首位ヤクルトの原動力だ。
 初めて4番に座ったのが3年前の5月。年俸900万円だったため「12球団で一番給料の安い4番打者」と揶揄された。
 残念なことに、その状況は今もかわっていない。以下は今季の12球団の主な4番打者年俸ランキング(金額はすべて推定)。

 1位 アレックス・ラミレス(巨人)=5億円
 2位 和田一浩(中日)=4億円
 3位 山武司(東北楽天)=2億5000万円
 4位 村田修一(横浜)=2億2000万円
 5位 新井貴浩(阪神)=2億円
 6位 アレックス・カブレラ(福岡ソフトバンク)=1億8000万円
 7位 小谷野栄一(北海道日本ハム)=1億4600万円
 8位 中村剛也(埼玉西武)=1億2500万円
 9位 福浦和也(千葉ロッテ)=1億円
 10位 チャド・トレーシー(広島)=6600万円
 11位 T−岡田(オリックス)=5800万円
 12位 畠山=4100万円

 ラミレスの10分の1にも満たないバーゲン価格。本人はどう思っているのか。
「まぁ、これまで大した成績を残してこなかったので仕方ないですね」
 屈託のない笑みを浮かべて畠山は言った。

 昨季途中から畠山は軸足に体重を乗せ、深く沈み込むような構えに変えた。その理由はこうだ。
「元々、僕はタイミングを大きくとるタイプ。体のセンターに置いていた軸を後ろに移し、その反動で打つ。でも、この打ち方だとランナーがいる時などピッチャーはクイックで投げるから対応しにくい。要するに体重移動の時間がもったいないんです。
 ところが最初から軸足に体重を乗せておくと体重移動の時間が省けるし、タイミングを崩されることもない。今はこのフォーム一本で行こうと思っています」

 新打法に取り組むきっかけは戸田でのイースタンリーグの試合。ぎっくり腰で二軍に落ちた畠山は「1回フォームを変えてみよう」と思いつき、軸足に体重を預けてみた。
 すると、どうだ。早速、ホームランが飛び出した。目の前の視界がパッと開けたような気がした。昨年5月の出来事だ。
 ただ新打法は下半身、とりわけヒザに負担がかかる。まさにハイリスク・ハイリターン。この勝負に勝たなければ“稼げる4番”にはなれない。

 岩手県花巻市の出身。01年、ドラフト5位で専大北上高からヤクルトに入団した。高校通算62本塁打のパワーがスカウトの目に留まった。今でこそ岩手といえば菊池雄星(西武)が有名だが、当時は唯一の郷土出身選手として注目を集めていた。
 だが彼には、大きな欠点があった。太りやすい体質。高3の時点で85kgだった体重は、年が明け、合同自主トレに参加した時には96 kgに“水ぶくれ”していた。そこでついたニックネームが「ブー」。

「アニキの倍はご飯食べていたな。だから、よく飯が足りないこともあったよ」
 そう語るのは父親の司だ。
 司は72年のセンバツに専大北上のエースとして出場し、後に大洋・横浜で投手として活躍する斉藤明夫がセンターを守っていた花園(京都)相手に完封勝ちを演じている。

 和洋は二男。長男の雅徳も高校球児で、98年夏の甲子園には雅徳が投手、和洋がサードで出場している。二男の茫洋とした性格は、どのようにして形作られたものなのか。
「細かいことは怒ったことがない。勉強がどうのこうのとかさ。野球を真面目にやってくれれば、極端な話、余程悪いことさえしなけりゃええべと思っていたよ」
 絵に描いたような放任主義。父も野球選手でありながら、キャッチボール以外、何も教えたことがないという。畠山にエリート臭がしないのは、そのためか。

 競馬でいう重め残り。1年目の自主トレは基礎メニューについていくことさえできなかった。
「困ったのは腹筋。僕、50回くらいしかできなかったんです。周りも呆れてました」
 畠山が入団した当時の二軍監督が現一軍監督の小川淳司だ。
「デブでも“動けるデブ”と“動けないデブ”がいる。僕は二軍監督を9年やったんですが前者が西武の中村で、後者が畠山でしたね」
 動きが悪い上に練習嫌い、私生活もちゃらんぽらんときては、一軍定着など夢のまた夢だ。

 本人の懺悔。
「プロに入った時は練習をサボることしか頭になかった。たとえば“1時間打て”と言われたら10分だけ打って、あとの50分は風呂に入ってました。
 戸田の寮もよく抜け出しました。門限は夜の10時なんですが、夜中に浦和や川口の繁華街に繰り出す。酒もボトル1本は軽かったですね。で、3時か4時に帰ってきて2時間くらい寝て球場に行くんです。自分でいうのも何ですが問題児だったと思います」

 この“東北の問題児”を更正させるための“指導教官”に任命されたのが二軍打撃コーチに就任したばかりのOB荒井幸雄(現巨人二軍打撃コーチ)だった。
 荒井は日本石油時代の1984年、ロス五輪の日本代表に選ばれ、金メダルを獲得。プロでも2年目に新人王に輝いた。現役時代は左の巧打者として鳴らした。
「まぁアイツには手を焼きましたよ」
 苦笑しながら荒井は語り始めた。

「朝、グラウンドまでの散歩を命じた。オレはその様子を隠れて見ていた。するとアイツ、散歩なのに自転車で来やがった。“オマエ、散歩行ってきたのか?”と聞くと“はい!”だって。“ウソつくな!”と怒鳴り上げましたよ。
 生活も不真面目そのもの。キャンプ前、(寮のある)戸田に戻っているはずなのに本人は“まだ岩手です”なんて平気でウソつくんだ。こっちは近所のパチンコ屋で遊んでいるという情報がとうに入っているのに。それなのにシラばっくれている。だから、こう言ってやりました。“オマエ、どこにいるか分かってるんだぞ。今すぐ自転車で帰ってこい!”って(笑)。僕も今年でコーチ生活11年目になりますが、唯一引っぱたいたのはアイツだけですよ」

 プロは実力の世界である。どんなに素行が悪くても、素質さえあれば見捨てられることはない。球団は手を替え、品を替えながら、投資した分の回収にかかる。
 練習嫌いの問題児にも、ひとつだけ誰にも真似のできない長所があった。それは長打力である。入団した1年目、二軍ながら11本塁打を放ち、2年目には19本塁打、56打点でイースタンリーグのホームラン王、打点王に輝いた。

 当時、一軍打撃・走塁コーチだった杉村繁(現横浜巡回打撃コーチ)が、こんな印象を口にする。
「長打力は素晴らしかったね。しかも体が柔らかく、右方向にも大きいのが打てた。それに思い切りがいい。狙い球をきっちり絞って打ちにいき、ダメだったらゴメンナサイというタイプ。昔気質のプロのバッターというイメージでしたね」
 和製大砲の原石は、どの球団も喉から手が出るほど欲しい“希少資源”である。本人も飛距離には自信を持っていたようだ。
「飛ばすことには自信がありました。人よりも(打球が)しっかり打てているし、フェンスを越える角度もつけられる。ただ、その頃は理論も何もなかった……」
 あとは、どうやって原石を磨き上げるか。再び“指導教官”の荒井にご登場願おう。

「アイツに球団が33の背番号を与えたのは、広島や巨人で活躍した江藤智のようになってもらいたかったからなんです。実際、それくらいの器だった。2年目には3試合で5本ホームラン打ったからね。
 課題は体の切れでした。太っているからインサイドがさばき切れない。といって(インサイドの打ち方が)下手というわけではないんです。ヒジを抜く技術などは元々、うまかった。
 上(一軍)に行けば、バッターは皆、インサイドを攻められる。150キロのボールは仕方ないとしても140キロ台は打ち返さないと、最後は外の変化球でやられてしまう。
 そのためには体の切れをよくすることが必要だった。球団からは“何とか一人前にしろ”と矢のような催促。もう、これは、徹底して打ち込ませるしかない。ティーバッティングを500球とか800球とか、フラフラになりながら延々とやらせたこともあります」

 この“スパルタ指導”が実り、プロ入り8年目の08年には121試合に出場し、9本塁打をマークした。やっと素質の一端が開花した。

(後編につづく)

<この原稿は2011年6月11日号『週刊現代』に掲載された内容です>