畠山の人並みはずれた長打力に目をつけたのが前監督の高田繁である。
「その頃、外国人のアダム・リグスもアーロン・ガイエルも不調で4番がいなかったんです。まぁ仕方なく使ったというのが真相ですよ。問題は守備。どんなに打っても守りのミスで試合を落とすことがある。使う側はどれだけ我慢できるかということでしょうね」
 首脳陣の話を総合するとファーストはぎりぎり合格。サードは、ベンチがどれだけ目をつぶれるか。レフトは不適格――。これが守備の相場観だ。
(写真:「(バットの)芯に当たらないと飛ばないし、重たく感じる」と低反発球の印象を語るが、早くも2ケタ本塁打をマーク)
 現監督の小川の述懐。
「3年前のことです。“畠山、サードの守備は大丈夫か?”と高田さんが聞くものだから“守備範囲は広くないし、うまいとはいえない。しかしボールを捕ればなんとかファーストには放れます”と答えた。
 ところがサードで先発した試合で、畠山はいきなり暴投してしまった。それから高田さんは基本的にサードでは使わなくなった。“ヘッドコーチ(小川)が大丈夫というから使ったら、暴投だよ”と随分、皮肉を言われました(笑)」

 その高田が成績不振を理由に休養、ヘッドコーチだった小川が指揮を執るようになったのが昨年5月27日から。この頃のヤクルトは中軸が機能せず貧打に泣いていた。
「守りには目をつぶってでも打てる人を優先に打順を組まなければならない。幸いジョシュ・ホワイトセルという外国人が入ってきた。彼を4番にして前後を誰に任せるか。ひとりを飯原誉士、そしてもうひとりを畠山にしたんです。ポジションは二軍時代に1年間だけやらせたレフト。彼は随分、チームの得点力アップに貢献してくれました」

 小川は就任時に19もあった借金を完済し、シーズン終了時には4つの貯金を残した。この奇跡のV字回復の立役者のひとりが「ブー」こと畠山であったことは言を俟たない。
 昨季、畠山は93試合の出場ながら打率3割、14本塁打、57打点。打率と本塁打でキャリアハイをマークした。「未完の大器」から未完の二文字がとれた初めてのシーズンだった。

 今季はレフトとファーストの併用だ。守備の不安は依然として消えない。
 4月30日の阪神戦ではレフトの守備で浜風に流された城島健司の飛球の目測を誤り、満塁の走者一掃となる痛恨のミスを犯した。
 失態は続く。5月15日の横浜戦、今度は藤田一也の左中間の飛球を捕れず、同点にされてしまった。22日のソフトバンク戦ではレフト前の打球に2度追いつけず、大敗のきっかけをつくってしまった。

 度重なる不手際。大きな体を丸めるようにして畠山はボソッとつぶやいた。
「いや本当に増渕(竜義)に申し訳ない」
 先の失態はいずれも増渕が投げている時のもの。畠山によれば、彼の登板時に限って難しい打球が飛んでくるというのだ。そして痛恨のミス。
「なんかね、捕れそうで捕れないところにすっごい飛んでくるんです。いつも増渕には“本当にごめんな”と謝るんですけど、アイツ“大丈夫ですよ”と言って僕を責めない。そう言いながらも、がっかりした顔をしているので、こちらは余計に辛い。年下だけど、本当に増渕に対しては“すいません”という気持ちしかないですね」

 守りのミスはバットで取り返すしかない。ベンチもそれを期待している。
「これぞ4番の仕事!」
 大向こうから、そんな声がかかりそうなシーンがあった。
 4月24日の広島戦。敵地マツダスタジアム。7回2死二塁、2対3の場面で打席に立った畠山は、左のセットアッパー青木高広のクロスファイヤー気味の内角ストレートを見事に腕をたたんでレフトスタンドに運び去った。一振りで試合を引っくり返してみせたのである。

 実は前日のゲームで、畠山は青木の内角ストレートに詰まらされ、ショートゴロに倒れていた。きっと今日の勝負どころでも、このボールを使うはずだと読み、虎視眈々と狙っていたのだ。
「狙い球といい、体の使い方といい、今季、一番印象に残っているホームランです」
 そう言って野武士はかすかに微笑んだ。

 近年、野球選手にはトータルな能力が求められるようになってきた。打つ、走る、守る。メディアは「三拍子揃った好選手」などと称える。
 結構なことだ。しかしイチローのようなスーパーな選手は別として、大抵の場合、あれもこれもできるというのは、あれもこれもできないというに等しい。
 下手クソなものは下手クソでいい。しかし、これだけは誰にも負けないというものを持っている選手に魅力を感じるのは私だけだろうか。

 ヤクルトの歴史を振り返ると、強い時期にはまるで礎石のような右の強打者がいた。
 たとえば1978年、初優勝を果たした時の大杉勝男(故人)。鈍足であることから、彼は試合中、広島の達川光男に「石ころ」呼ばわりされた。「内角を突き、うっかりぶつけたところで盗塁の心配はない」と暗に言いたかったのだろう。
 これが大杉のカンに障った。内角球をスタンドに放り込んだ大杉はダイヤモンドを一周するなり、達川の頭をしばき上げ、こう叫んだ。
「何が石ころだ。ふざけるな!」

 その大杉のかつての同僚で、畠山の入団時の監督でもある若松勉は、こう指摘する。
「大杉さんは配球を読んで打つのがうまかった。それに畠山は大杉さんに比べて練習量も足りない。大杉さんは豪快なイメージがありましたが、早出して打ち込みをしてから試合に臨んでいましたよ」

 そして大杉から永久欠番となっていた「8」を譲り受けたのが広澤克実である。野村ヤクルトの4番として、2度のリーグ優勝、1度の日本一に貢献した。
 広澤はヤクルト、巨人、阪神と3球団を渡り歩き、41歳でユニホームを脱いだ。引退間近に切った啖呵に私はしびれた。
「プロは年齢ではない。技術でやるものなんだ。今の阪神で僕以上の技術を持っているヤツがいるか?」

 畠山が大杉や広澤の域に達するには、まだ時間が必要だろう。しかし、古き良き時代の風をはらみながら、野武士のようなゴツゴツとした足取りで打席に向かう彼の姿が私は好きだ。およそ洗練には程遠く、華のかけらもないのだが、畠山の腰の据わったバッティングには土着の力感があり、昭和の郷愁を誘う。

 目下、体重は98kg。重くはないのか。
「まぁ、こんなものですね。走ったりする分には、もう少し軽い方がいいのでしょうけど、そこを求めても仕方がない。やっぱり僕は打つ方で……」
 畠山が背番号くらいのアーチを描けば、ヤクルトの10年ぶりの優勝も見えてくる。問題児から風雲児へ――。これも下克上のひとつの形態に違いない。

(おわり)

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<この原稿は2011年6月11日号『週刊現代』に掲載された内容です>