千葉ロッテのサウスポー・植松優友にはこんな記憶がある。彼は金光大阪高時代、中田を13打数無安打に封じ、“怪物キラー”と呼ばれた。
「舞洲球場で変化球を投げたら、パーンと大きな当たりを打たれた。打球の行方は見なかったのですが、スタンドがどよめいている。後で聞いたら、レフトのファウルゾーンにある高い照明塔のライトに当たったとか」
(写真:今は打順へのこだわりはないという中田。チームの勝利に貢献することが第一の仕事だ)
 その一方で怪物らしくない、こんなエピソードも。
 岡田が明かす。
「アイツとは高1と高3の時、寮で同部屋でした。彼はまわりからコワモテのイメージで見られていましたが、実はものすごくきれい好きなんです。僕がちょっとでも部屋を汚したら、すぐ掃除する。物の位置が曲がるのも嫌で、几帳面に直していましたね。
 普通、バッテリーというとピッチャーがいい加減、キャッチャーが神経質というのが相場なんですが、僕らの場合は逆でしたね」

 しかし、好事魔多し――。怪物もケガには勝てなかった。高2の春、右ヒジの靭帯を痛めてしまったのである。
 西谷が振り返る。
「春の大阪大会です。試合中“ヒジに電気が走った”と本人がキャッチャーに言ったんです。もちろん、すぐに交代させました。
 復帰には10カ月ほどかかりました。残念ながら、かつてのスピード、ボールの切れはもう戻ってきませんでした。
 私は今でも、彼の天分はピッチャーだったと思っています。あのまま育っていたら、間違いなく松坂大輔(レッドソックス)クラスになっていたはずですよ」

 中田本人も「プロにはピッチャーで行きたい」と心に決めていた。だから「そう簡単には諦めがつかなかった」という。
「高校の頃はバッティングよりもピッチングの方が自信がありました。ピッチャーでドラフト1位指名というのが自分の理想でしたから。
 しかし、靭帯が裂けてしまってからは軽くしか投げられなくなった。それから外野を守るようになったんですが、投げるといってもカットマンに返すだけ。痛みもありました。
 やはりピッチャーは何だかんだいっても、一番カッコいいポジション。実は今でもまだ、もう1回やってみたいなという気持ちは残っていますね」

 2度目の甲子園は高2の夏。2回戦で現在、チームメイトの斎藤佑樹擁する早実に2−11で敗れた。
 この試合、4番で出場した中田は4打数ノーヒットと佑ちゃんに完璧に封じられた。試合後、中田は悔し涙にくれた。
「変化球の印象は全くないんですよ。ストレートが速かった。想定外の速さ?  いや、そこまでは(笑)」
 2度目の甲子園、怪物にはほろ苦い記憶だけが残った。3度目は高3のセンバツ。この時は準々決勝で敗退した。
「僕らが負けた高校が、なぜか全部、優勝しているんですよ……」

 同年秋のドラフト会議では中田、唐川侑己(千葉ロッテ)、佐藤由規(東京ヤクルト)の3人が、“高校ビッグ3”として注目を集めた。
 中田は日本ハム、オリックス、ソフトバンク、阪神の4球団が競合の末、日本ハムが交渉権を獲得した。
 当時、編成部門を指揮していた高田繁にとっては、これが球団GMとして最後の仕事になった。
「1、2番打者候補は毎年のように出てくるし、育てることもできる。しかし、将来の4番候補となると、そうは簡単に出てこない。中田はファームで何年かいい経験をさせれば、必ず出てくる逸材だと確信していました。
もちろん、性格がヤンチャだということは聞いていました。顔を見ても怖いしね(笑)。しかし、プロは実力が一番。ちゃんと教育すればいいんです。少なくとも日本ハムはそういう方針だったから、不安は何もなかったですね」

 高校球界を席捲したスラッガーも、プロの水は甘くなかった。
 1年目は一軍での試合は出場なし。イースタン・リーグで11本塁打を放つなど和製大砲の片鱗こそ示したが、目立っていたのは派手な言動だけだった。
 ――プロをナメていた?
「えぇ、もちろん、ナメていました(笑)」
 単刀直入に中田は答え、続けた。
「入ったばかりのキャンプでそこそこ打てたので、今から思うと調子に乗った部分は確かにありましたね」
 翌09年も二軍スタート。5月に一軍デビューを果たし、22試合に出場したものの、売り物のホームランは0。ほとんど鳴かず飛ばずだった。

 その頃、二軍打撃コーチとして中田を指導していたのが現巨人二軍打撃コーチの荒井幸雄である。
「二軍で何本ホームランを打っても一軍に上げてもらえない時期があった。腐ってもしょうがないので『しょうがないから打ち続けろ』『ファームで30本打て!』と発破をかけましたよ。そしたら本当に30本打ったんです。
 彼の一番の長所はスイングスピード。日本ハムでは一番。プロでも5本の指に入るんじゃないかな。性格は素直。ちゃんと向き合って話せば、あんなにいい子はいないですよ」

 プロ入り3年目の10年、中田に大きな転機が訪れる。4月、千葉の鎌ヶ谷で行われた巨人との二軍戦で左ヒザを負傷したのだ。左中間の打球を追った際、足をひねって半月板を損傷した。
 手術を受け、約2カ月半のリハビリ生活を余儀なくされた。
「この時の経験が僕には大きかった……」
 珍しく神妙な口調で中田は語り始めた。
「このケガで野球に対する考え方が大きく変わりました。“今はまだ中田、中田って騒いてくれているけど、オレ、多分すぐに終わるんだろうな”って……。
 何より辛かったのは好きな野球ができなかったこと。1年目に(左手の)有鉤骨を骨折したんですが、その時はまだ右手だけでティーを打ったりできた。
 ところが今度はヒザなので歩くことさえできない。入院してから、しばらくはずっと松葉杖での生活。もう寮でテレビを見たりとかボーッとしているしかない。野球の試合は全く見なかった。
 ひとりで落ち込むこともありました。この先、どうなるのかなァとか……。オレって、こう見えて結構ナイーブなんですかね?」

 訊ねられても困るのだが、その後の野球人生に暗雲を漂わせかねない故障によって、逆に雑念が振り払えたのだとしたら、それは「ケガの功名」ということになりはしないか。
 その年の7月、千葉ロッテの大嶺祐太からプロ第1号を放つと、そこからの11試合で8発と、いきなり量産態勢に入った。車にたとえれば排気量の違いを、まざまざと見せつけた。
 そして迎えた今季、大器は、ついにそのベールを脱ぎ始めた。
 しかし、その全貌が明らかになるまでには、もう少々、時間が必要だろう。

 最後に本人に訊ねた。
「富士山にたとえると、今の完成度は何合目あたり?」
 丸刈りの似合う、自称「ナイーブ」な好青年は、ウーンと言って腕を組み、長考の末にこう答えた。
「まぁ、2合目か3合目でしょうかねぇ……」
 北の大地に根を張るようなスタンスの広い独特のフォームは、素質という名の裾野の広がりを想起させる。地下に眠る資源の埋蔵量はいかばかりか。
「ここから先が、自分自身でもちょっと楽しみなんですよ」
 4年目にして、やっと手にした自信の輪郭をなぞるように彼はつぶやき、小さく笑った。

 粗にして野だが卑ではない――。これは国鉄総裁・石田礼助の言葉であり、城山三郎の小説の題材にもなった。
 中田の振る舞いを見るたびに、この言葉を思い出す。打撃とは球体への破壊活動であるという考えは、果たして正しいのか。結論を得るためにも中田の打球をしかと見届けたい。

(おわり)

<この原稿は2011年7月11日号『週刊現代』に掲載された内容です>